哀愁は黄昏の果てに

 

 

愛しい者を失う時、人の心はあんなに空虚になるものか………
(あれから4年………とうとうあなたに追い付いてしまったわ……)
風見祐介が逝ったあの黄昏の日からそれだけの月日が経ったこの日も警察病院の中庭は同じ夕陽に染まっていた。
彼の生命が消えたその場所で毎日仕事をするのが忍びなく、彼女は夢だった小児科医への道をも捨ててしまった。
祥月命日には欠かさず彼の墓参りに行って、そこに眠る祐介と話を交わした。
高校の養護教諭の仕事を研修日と振り替えて休み、沢木瞳は此処に足を運んでいた。
毎年、彼の命日であるこの日に此処へ来るのが彼女の習慣だ。
此処はかつての彼女の職場である。
いつしか瞳も27歳になり、祐介が尊い生命の炎を燃やし尽くした時の歳と同じになっていた。
「やはり来ていたのか」
髪に白い物が混じり始めた宮本朗(あきら)先生が、変わらぬ優しい笑顔を浮かべながら彼女の横に立った。
「医局に顔を出せばいいのに」
宮本の言葉を聞き、その顔を見ると、瞳の眼が見る見る内に潤んだ。
あの日の事を思い出したのか、宮本と逢うのが1年振りで懐かしいからなのか、瞳は混乱して自分でもその涙の理由が解らなくなっている。
「先生………」
微笑んで見せたつもりなのだが、溢れる涙でグチャグチャになった顔で宮本を振り仰いでしまった。
「まだ………立ち直れないでいるのか?美人が涙するのは絵になるけど、風見君が見てるぞ」
元同僚の妹でもある瞳を、小さい時から知っている宮本は、祐介がこの世を去ってから抜け殻のようになってしまった彼女の事を、身内のような気分でハラハラしながら見守っていた。
「風見君もいつまでも成仏出来ないじゃないか。忘れないでいてやる事は大切な事だが、新たな一歩を踏み出して彼を安心させて上げる事も、もっと大切な事なんだぞ」
宮本は諭すように言うと、立ち話も何だからと自分の執務室に来るように勧めた。
彼はこの4年の間に外科部長に出世していた。
来客用のソファーに瞳を掛けさせると、自らコーヒーサーバーで淹れた愛飲のコーヒーをカップに2杯注いだ。
そんな気さくな処は、昔から全く変わらない。
「何か悩んでるみたいだな」
さり気なく訊ねる。
宮本の優しい眼に見詰められると、隠し事は隠し事で無くなってしまう。
何故か打ち明けたくる何かが彼にはある。
彼に隠し事を出来たのは、祐介だけかもしれない。
身体の事………喀血した事実を隠せるだけ隠し通した。
あれはあれで彼の、祐介の生き様だったのだ。
最近はそう思えるようになったが、あの当時はヒヤヒヤさせられてばかりいたものだ。
半年と言われた生命を倍近く生きた彼。
人の3倍の速さで生き急いだ彼を、安らかな眠りに付かせてやりたい。
宮本にはその気持ちが強かった。
「兄には言わないで欲しいんですけど……」
瞳が漸く口を開いた。
「私は口が堅い。君が話しても良いと言うまでは、沢木には黙っている事にしよう」
宮本は瞳の申し出を請け負った。
「だが、兄さんにも言えないような悩みなのか?」
「兄だから言えないんです。きっと喜んでしまって私の気持ちが決まらない内に、兄に引っ張られるようにして結 論を出してしまいそうだから………」
「どうやらおめでたい話のようだな」
宮本は自然微笑んだ。
「プロポーズ、されたんです」
「ほう、どんな人なんだい?」
「学校の音楽の先生なんです。偶然にも風見さんの高校時代の先輩で………とにかく明るくて、それでいてとても繊細に人の事を思い遣る事が出来て………生徒の人気を一身に集めているような………生徒達の事を本気 で愛している、とても心の暖かい、そんな人です」
「で………君はその人の事をどう思っているのかい?」
「それが…解らないんです。同僚として、いい人だと思っています。でも、人生の伴侶として愛せるのかどうか……何でも風見さんと比べてしまうのでは無いかと言う気もしますし」
瞳は出されたコーヒーに手を出さないまま、窓の外の見事な程の夕焼けに眼をやった。
「答えは出ていると思うよ。君がその人を語った言葉……その中に、ね」
宮本は優しく言った。
「君は風見君をまだ愛している。しかし、彼はもうこの世には実在しない。君は彼の温もりを感じる事が出来る か?……風見君が君を愛しながらも、必死で自分の感情を押さえていた理由は解るだろう?今の君は、彼の危惧していた状態になっている。彼は自分の生命に限りがある為に君を諦めた。それはどれだけ彼にとって辛い事だったか……風見君は君の幸せを、それだけを祈っている筈だ。今も、君の近くでそう言っているに違いない」
宮本の言葉に呼応するように、瞳は沈み行く夕陽を見上げた。
「坂崎先生、って言ったかな?彼は………」
※ 坂崎先生…某同人誌の企画から生まれた高校の音楽教師。瞳は此処の学校の養護教諭に転職した。
宮本の口から唐突に出た意外な名前に戸惑いながら、瞳は何を言い出すのかと待ち構えた。
それをはぐらかすつもりなのかどうかは解らないが、宮本はこの場合には全く関係のなさそうな事を言い出した。
「高見沢を覚えているか?以前、三原署から本庁に行った高見沢俊(しゅん)」
瞳は黙って頷いた。
※ 高見沢俊…どっかで聞いた名前だが、勿論違う。彼と坂崎先生が主役の小説もある。祐介が死なずに本庁に行って彼と組んだと言う話も別に存在する。
「彼がこの前、犯人と格闘中に傷を負って、此処に入院していたんだが、大学時代につるんでバンドをやっていたと言う友達が見舞いに来てね」
誰の事を言っているのか、此処でピンと来た瞳は無意識の内に紅くなっている。
「丁度私が居合わせてね。高見沢が彼を紹介してくれたんだ。あいつが、彼の君への思いを暴露したんだが、彼は君の心の中に住んでいる風見君には勝ち目が無い、と言って笑っていた。いい顔で笑うな、彼は。彼なら君の心の中にある風見君の思い出ごと、君を包み込んでくれるんじゃないかと思うな。いや、彼だったらその思い出を共有してくれるに違いない。彼の胸に飛び込んで行けよ。躊躇わずに。さっきも言ったが、君自身の心の問題にはとっくに答えが出ている。その紅潮した頬、それが答えだ」
「………………………………」
瞳は間もなく沈み切ろうとしている夕陽に別れを告げるかのように、愛おしそうな眼差しを送っていたが、辺りが薄暗くなり始める頃になって、やっと口を開いた。
「そうですね。私はきっと此処に訣別をしに来たんです。自分の出した答えを確信出来るように………」
穏やかな微笑みを湛え、瞳はキッパリと言った。
「来年からは此処に来る事も無いでしょう。それは決して風見さんを忘れると言う事ではありませんが………。先生、どうもありがとうございました。人は大抵、人に相談を持ち掛ける時、既に自分の中に答えを持っているんですね。それを他の人の言葉で確認したいだけなのかも知れません」
「沢木が寂しがるだろうがな。心配するな。私が時々飲みに誘ってやるから。安心して嫁に行けよ」
「先生………」
堪えていた涙が再び零れ落ちた。
「幸せになれ。風見君の分まで、な」
優しい風が瞳の頬を撫でた。
祐介の気配がした。
おめでとう。やっと安らかに眠れるよ………
そんな囁きが聴こえたような気がした。
祐介の気が天高く昇華して行くのを、宮本はハッキリと見た。

 

− 終わり −