あにいもうと

 

※この作品は185000hitのきたこ@香野由布さまにリクエストをお願い致しました。きたこさまに捧げます。

 

香織が幼い頃、腹違いの兄が一緒に暮らしていたらしい。
彼女はそのような事はすっかり忘れて育って来たのだが、高校に上がって初めての夏休みの頃から、突然毎日のようにある少年の事を夢に見続けるようになった。

その少年は香織とは明らかに瞳の色が違っていた。
香織よりも明るい瞳を持つ彼を、夢の中で彼女は『お兄ちゃん』と呼んでいた。
両親に訊くと、『お前にお兄ちゃんなんかいる訳がない』と一笑に伏されただけだった。
香織が夢に見るのは、子供の頃の様子では無い。
確かに自分は今の高校の制服を着ていて、父も母も、周りの風景も、今と何ら変わりは無かった。
「一体、あの人は誰なの……?」
香織は物思いに耽る事が多くなった。
あの瞳の色……日系のハーフなのではないだろうか?
もうすぐ2学期の期末テストが訪れようとしているのに、香織はテスト勉強に全く手が付かなくなってしまった。
確かに香織は戸籍上、この家の一人娘と言う事になっている。
高校の入学手続きの時に住民票を提出する必要があり、彼女もそれを眼にしていた。
でも、あの人……自分が夢の中で『お兄ちゃん』と呼んでいるあの人、どこかで逢った気がするし、夢だとは言え、その彼を『お兄ちゃん』と呼ぶ事に全く躊躇が無かった。
香織はその少年は本当に自分の兄なのかも知れない、そして小さい頃一緒に暮らしていたに違いない、そう思うようになっていた。

 

香織は居ても立ってもいられなくなった。
今の家に引っ越して来る前、同じ電車の沿線に住んでいた。
まだ小さい頃の話である。
朧げにその家の場所を覚えているような気がした。
テスト前だけれど、このままでは却って勉強に身が入らないだけだ。
香織はある放課後、ついにその駅へ降り立った。
今、住んでいる所の駅を通り過ぎて、下り電車で終点近くまでやって来たのだ。
何となく、記憶が甦る。
駅前の大型スーパー、大好きだったケーキ屋さん……もう居ないだろうな、あの優しい駅前交番のお巡りさん……。
記憶を辿って、母に手を引かれて歩いた道程を辿って行く。
香織が住んでいたのは団地だった。
「………ここだわ」
見覚えのある表札が出ている部屋を片っ端からベルを押してみる。
まだ夕方前、留守の家が多かった。
やっと出て来てくれた50代位のおばさんに訊ねてみる。
香織が住んでいたのと同じ階段の3階の部屋だった。
「あの、私……10年位前まで此処に住んでいた藤吉…藤吉香織と言います。その頃、此処に住んでいらっしゃいましたよね?」
おばさんは買物に行こうとしていたようで、忙(せわ)しげに答えた。
「藤吉、さん……?ああ、知ってるわよ!あなた、香織ちゃんなの?大きくなったわねぇ〜。お母さんお元気?」
香織は運が良かった。
最初に出て来てくれたおばさんが、彼女と母親の事を記憶していてくれたなんて。
「あんなに小さかったのにねぇ……」
おばさんはドアの外に出てしまって、鍵を閉めながら呟いた。
どうやら落ち着いて話を訊く時間は無さそうだ。
「駅前のスーパーに買物に行かなきゃならないのよ。今日は帰りが早いらしいんでね」
おばさんはでっぷりとした身体を揺らしながら、さっさと階段を降り始めた。
「すみません、忙しいとは思うんですが、駅までご一緒していいですか?」
「構わないけど、私は自転車よ」
「いいです。私、走ります」
「あら、そう?」
そんな会話があって、香織はおばさんに同行を許可して貰ったのだった。

 

「あなたの家に男の子が居なかったか、ですって?」
おばさんは重そうに自転車を漕ぎながら、首を傾げた。
自転車の脇を走っている香織は充分彼女に付いて行く事が出来た。
冬なので、却って暖かくなって心地好い。
制服の上に学校指定の紺色のコートを羽織り、両手には手袋をはめている。
この時期の夕闇の訪れは早い。
まだ5時前なのに、もう空はコバルト色に変わりつつある。
「男の子が居たと言う記憶は無いけど……」
おばさんは目指す駅前の大型スーパーの前に自転車1台分のスペースを辛うじて見付け、ほぼ強引にそこに突っ込んだ。
「お母さんに宜しくね」
おばさんは言葉だけは愛想良く、慌てた様子でスーパーの中に駆け込んでしまった。
香織は溜息をついて、踵を返した。
仕方が無い……無駄足だった。大好きだったケーキをパパとママへお土産に買って、今日は帰ろう。
あんまり遅くなると心配するし。
急に懐かしくなって、気分転換に来てみたのだと説明しよう。
香織が足を踏み出した時、さっきのおばさんが大声で呼ぶのが聴こえた。
「ちょっと、あなた!待って頂戴!!」
おばさんはスーパーの入口で買物籠を片手にゼイゼイと息を弾ませていた。
香織は急いで、おばさんの所へ走った。
「今、近所の奥さんに逢ってね、お宅の事を訊いてみたのよ。そうしたら、ハーフの男の子が半年位居たって言うの。それを聴いて私も思い出したわよ」
香織はもう構わずにおばさんの買物籠を奪い取るようにして一緒にスーパーの中に突入した。
「お時間が無いでしょうから、どうぞお買物しながらお話しして戴けますか?」
香織は荷物持ちを買って出たのだ。
「あなたも大きくなったから、まあ、話してもいいでしょう」
おばさんは何故か溜息を洩らした。

 

「……いとこ?」
「そうよ、あなたのお父さんには妹さんがいらしたでしょう?結婚はしていなかったらしいけど、ハーフの男の子を産み落としたのだとか。あなたにこんな事を言っていいのか解らないけど、旅行先のパリで恋に落ちた男性との間に出来た子供だったそうよ」
おばさんはこの話を香織に聞かせてしまう事を躊躇はしなかった。
今時の高校生、こんな話で顔を赤らめたりはしない。
「お父さんは解らないって言う事ですか?」
「そうだったんじゃない?連絡も取れなかったみたいよ。お父さんの妹、あなたの叔母さんね。あなたが2歳か3歳の頃だったか、突然病気で亡くなってしまったの。それでお父さんがそのハーフの子を引き取ったんだったと思うわ」
香織は胸を打ち奮わせた。
なぜ、その『お兄ちゃん』は居なくなったのか?
どうしてお父さんもお母さんもその事を私に隠すのか?
「その子の……名前は?年は幾つだったんですか?」
動揺を隠して、おばさんに訊ねる香織。だが、その声は少し震えていた。
「名前は、覚えてない。お父さんに訊いたら?年は……そうね。香織ちゃんより3つ位上だったでしょう。大きくなってさぞかしハンサムになった事でしょうね。可愛い子だった」
「お父さんとお母さんは、どうしてその子を家から追い出したんですか?私にお兄ちゃんなんか居ない、って、その子の事隠してるし、家に写真も残ってないんです」
「追い出した?違うわよ。行方知れずになったのよ。新聞によると、どうやらパリから父親がやって来て、連れ去ったらしい、って言う話だったわ」
「えっ!?誘拐、ですか?」
「父親に連れ去られた場合、どうなのかしらね?でも、無断で連れ去ったのだから、そうなるんじゃない?」
おばさんは忙しそうに野菜やら肉類やらを籠に詰め込んで行く。
「学校の図書室に新聞の縮刷版があるでしょう?気になるのなら調べてみたらどう?ウチは●日新聞しか取ってないから。あなた達が引っ越す半年位前の事だったと思うわよ」
おばさんはそう言うと、『じゃあ、悪いけど』と言って店内用の籠を香織から奪い取るようにして、レジの列に突進して行くのだった。
大型スーパーの外に出ると、雪が降り始めていた。
積もりそうな気がした。

 

図書室に通い始めて3日目に、『その日』の縮刷版が見付かった。
小さい写真も出ていた。
名前は『藤吉 雄哉』。……日本名しか付けられていなかったのだろうか、そこにはその名前しか記載されていなかった。
写真の少年は香織が夢で見たあの少年に間違いない、と確信する事が出来た。
夢の中の彼は香織よりも少し年上だったが、面影は残っていた。
なぜ、突然香織の夢の中に彼が出て来たのか、全くの謎である。
しかし、生きている事は解った。
そして、本当の『あにいもうと』では無かったが、香織に取っては、過去の幼い日々も、そして今も、彼が『お兄ちゃん』である事に変わりは無かった。
香織は重大な決意をした。
高校を卒業したら、パリの大学に進学する。
そこで、実は小さい頃からの夢だったファッションの勉強をしながら、『お兄ちゃん』を探そうと。
何年掛かっても、いい。
生きているのだから。
雲を掴むような話ではあるが、夢に出て来た彼も、香織に逢いたがっているのではないか。
だからこそ、リアルな姿で彼女に連日のように逢いに来たのだ。
香織はそう思いたかった。

 

この計画、まだ両親には打ち明けていない。
香織が『お兄ちゃん』の事を知った事も、彼らはまだ知りもしなかった。
進路の話をする段階で、一波乱起こりそうだが、もう香織の決意は揺るがない。
そして、不思議な事に、香織がいとこのお兄ちゃんを探し出す事に決めたその日から、その夢はパタリと見なくなったのだった……。

 

数年後、ふたりは運命的に出逢った……。
彼は香織が留学した大学で教授の助手をしていたのだ。
緩いウェーブの掛かったその柔らかそうな髪、優しそうな瞳は、彼女の夢の中に出て来た彼そのものだった。
その時、香織は既に彼に恋をしていた。
『お兄ちゃん』が恋人に変わる日はそう遠くは無さそうである。

 

− 終わり −