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1つの別離の風景

 

 

「私達………もう終わりにした方がいいと思うの」
登志子は、咥え煙草にライターの火を近付けながら、強い意志を込めた声で言った。
一服吹かせてから、テーブルの向かいに座る明彦に視線を預けた。
日曜日の喫茶店は、別れ話をするには似つかわしくない賑やかさだ。
登志子は黙り込んで俯く明彦から、ゆったりと広く取られた窓の外の景色へと眼を移した。
11月の終わりの少し冷え込む日だった。
外を歩く人々は皆、コートやジャケットの襟を立てて、足早に行く。
職場では、バリバリと仕事をこなす有能な営業部長で通っている、39歳の明彦は、突然の登志子の申し出に戸惑い、そしてオロオロとした瞳で彼女を見返した。
登志子は彼の全ての表情を知り尽くしている。
仕事の顔も、そして、仕事を離れて素顔を剥き出しにしている時も。
2人は4年間も付き合っている。
登志子はその間に33歳になっていた。
2人が出逢った時、既に明彦には妻子があった。
彼の家庭には皹が入り始めていた。
明彦がこの若さで営業部長に収まっているのも、家庭を顧みない仕事人間だったからである。
皮肉な事に、ある日、彼が仕事一途な生活に疲れ切って、ふと我に返った時、妻の心が自分から遠く離れて行ってしまっているのに気が付いた。
妻はもう、来年小学校に上がる男の子だけに愛情を注ぎ込んでいて、明彦の事など眼にも入らなくなっている。
それ程に彼女の心を荒ませたのは、明彦自身に他ならない。
しかし、男の立場で言うと、『こっちが外でどんなに辛い思いをして働いていると思っているんだ?』と言う事になる。
明彦は妻の心を取り戻そうとはしなかった。
4年前のあの頃なら、まだ間に合ったかもしれない………
登志子が彼の心のエアポケットにスッと入り込んでしまったのは、丁度そんな時期だったのだ。
彼女が明彦の前に現われたのは、営業部で使っているコンピューターのプログラムを見直す事になった時に、システム・エンジニアとして打ち合わせに来たのが初めてだった。
頭が切れて、身のこなしも洗練されたバリバリのキャリア・ウーマンだが、つんとした処のない、嫌味の無い美しさを持っている事を明彦は一目で見抜いた。
成熟した大人の色気がスーツの下に隠されていた。
明彦はきちんと編み込まれている髪を解いた処を見たいと思った。
今更、独身のキャリア・ウーマンに一目惚れするなんて思っても見なかった事だが、どうやら本気らしい自分に気が付いて、余り打ち合わせに身が入らない明彦だった。
食事にも誘う事が出来ずにそのプロジェクトが終わってから暫くして、登志子の方から遠慮がちに食事へ誘うメールが届いた。
2つ返事でOKした明彦は、忙しい仕事をやり繰りして、彼女の為に時間を作った。
2人が親密になるのに時間など必要な筈は無く、所謂不倫の仲になった。
もう、それから4年の月日が過ぎただなんて………登志子は窓ガラスから往来を眺めながら、ふと長いようで短かった4年間を思った。
目頭が熱くなるのを覚えて、慌ててメンソールを灰皿に置くと、眼にゴミが入ったように装ってハンカチーフを取り出した。
明彦が差し出すハンカチが彼女の白い手に触れた。
一瞬、時間の流れが止まった。
「なぜだ。他に好きな男でも出来たのか?」
「そうよ。多分、結婚する事になると思うわ」
あっさりと言ってのけ、登志子は微笑して見せた。
我ながら上手い演技だわ、と彼女は思った。
「嘘だな」
明彦は即座に否定する。
「そんな事が見抜けないと思っているのか?」
「私に好きな男が出来たのも気付かなかった位じゃないの。解る訳が無いわよ」
登志子は眼の前にあるのも忘れていた冷めたコーヒーを口に運んだ。
店内に流れる有線がさっきからALPEEの曲を特集している。
休日の有線放送はリクエスト方式ではなく、予め編集した物を掛けているから、こんな事もある。
『tears for you』の後に続いて、『ビアスは片方だけ』が流れる。
愛しながらも別れる哀しい歌だ。
登志子はこの切ない歌が好きだったが、今日だけは身につまされて聴く事が出来ない。
店内がざわついているのが、不幸中の幸いと言う物だ。
早く終わって………堪えに堪えて唇を噛む。
「登志子。家内から何か言われたのか?」
明彦が冷静な声で訊いた。
どうやら登志子は女優には向いていないらしい。
明彦の声を聞いて、今までやっとの事で自分を支えていたものが、ポキリと折れてしまった。
しかし、『家内』と言う言葉に少しだけ嫉妬する。
私には関係無い事よ。
いつもそう言い聞かせて考えないようにしていた、明彦の妻の存在が俄かに現実の事として戻って来たのだ。
そう、3日前の木曜日の昼休みに、彼女に呼び出されてからは。
「………………智彦くん、不治の病いなんですってね?」
智彦とは明彦の1人息子だ。
「えっ?!」
明彦は狼狽した。
それは息子の名前を知らない筈の登志子が、それを口にしたからだけではない。
「あなた、まさか知らなかったの?」
登志子は呆れた。
いくら自分との不倫の恋に現を抜かしていたからとは言え、そんなに彼の眼は腐っていたのか………
「家内とは会話が無かったからな。この頃では家で食事をする事さえ無かった………」
「まさか、入院している事も知らなかったなんて言わないでしょうね?」
「いや……その通りだ。この処、家内も息子も家にはいなかったが、最近ではそんな事は日常茶飯事だったし、また実家に帰ってしまったんだろう、位にしか思っていなかった………」
「………奥さんの心が離れて行ったのも無理ないわね」
「………………………………」
「奥さんはね。私に別れてくれとは一言も言わなかったわ。ただ、智彦くんの残り少ない時間だけでも、あなたにいいパパでいて欲しいんだって………だから、その間、たった半年の間だけでいいから、あなたとは逢わないで、って………私にそれだけ言って、頭を下げたのよ。どんな気持ちで私なんかに頭を下げていたのか………恨まれても仕方の無い筈のこの私に」
「………………………………」
登志子の話は少なからず明彦の心に衝撃を与えていた。
彼は頭を抱えた。
「俺はもう、お前無しでは生きられないんだよ!半年も逢えないだなんて」
「何言ってるの!自分の子供があと半年しか生きられないって言うのに。そんな事を言っている場合ではない筈よ。それに私は半年したら元に戻ろうなんて、甘い事は考えられないわ。だから、最初は何も言わずに別れようと思ったのよ」
「どうしても別れるのか?」
「未練たらしい事は言わないで!」
思わず登志子は声を荒げた。
周りの客達の剥き出しになった好奇心一杯の視線を全身に感じながら、声のトーンを下げる。
「もう駄目なのよ。私、奥さんには敵わないわ。ちゃんと私達の事を知っていて………」
声が詰まった。
「あいつが気付いているかもしれない、とは前から思っていた。でも俺はそれでも構わなかった。いずれ、家内とは正式に別れてお前と一緒になるつもりだったんだ」
「駄目よ。そんな事を言っても。私は奥さんからだけでなく、智彦くんからまであなたを奪えないっ!」
煙草がかなり短くなって、灰皿の中にポトリと灰が崩れ落ちた。
「私達の関係は、もうこの煙草の灰みたいに燃え尽きて崩れ落ちているのよ……ねえ、お願い。智彦くんの所に帰って上げて」
「登志子!」
登志子はハンドバッグから折り畳んだメモを取り出した。
病院の名前と病室番号が、明彦の妻の筆跡で書かれていた。
「早く!私の前から消えてよ……」
登志子は弱々しく言って、そのメモを明彦の手に押し付けた。
「あなたが行かないのなら、私から消えるわ………」
そう言うと、すっと立ち上がる。
「さようなら………あなたとの4年間、とても素敵だった………どうか、もう私の事は忘れて……仕事も辞めるし、マンションも引き払うわ。私はもうあなたの中には存在しない………過去の遠い記憶の中に押し込めて、きっと封印してしまってね………」
登志子は札入れから2人分のコーヒー代には多い紙幣を取り出して、テーブルに置いた。
最後に刻み付けるように明彦の顔を愛おしく見詰めると、振り切るように踵を返し、脱兎のように店を飛び出した。
振り返らなかった。
もう、『ピアスは片方だけ』は聞こえなかった。
涙が滂沱と流れ落ちた。
目眩く季節が2人の間を通り過ぎて、今、永遠に止まったのだ。
思い出が走馬灯のように駆け巡り、涙は止まらない。
擦れ違う人がヒソヒソと彼女の噂をしながら通り過ぎて行く。
構わずスタスタと歩きながら、手の甲で力強く涙を拭った。
ふと、チケット・ショップが視界に入った。
一旦通り過ぎたが、自動ドアに貼ってあるチラシに後ろ髪を引かれて、数歩後戻りした。
『ALPEE クリスマス・コンサート in BUDOHKAN カメラ席開放!追加席残り僅少!当店で取扱中!!』
今年のクリスマスは1人か………
思い切り、心に掛かった雲を払い除けるようなALPEEの曲を聴いて盛り上がろうか………?
久し振りに昔のようにコンサートを見に行くのもいいかもしれない。
そう思った時、登志子は既にチケット・ショップの自動ドアを通り抜けていた。

 

− 終わり −