冷たい暖炉

 

 

パパ、私はこのまま死んでしまうの?
療養所から自宅に戻されたその晩、暖かい暖炉に守られたその部屋で彼女はその燃え盛る火に向けて語り掛けた。
パパは、この外の雪が溶ける頃には元気になるって言っていたけれど、とてもそんな風には思えないの。
その問い掛けに答えるべく父親は、先程まで彼女の傍に寄り添っていたのだが、夜の闇に耐え兼ねてソファに移ってうとうとと眠りに就いていた。
雪が降り積もるその音さえも聴こえそうな静けさの中、なかなか眠る事の出来ない彼女に、その闇と火が心細く襲い掛かって来る。
彼女には、夜の暖炉の火は決して暖かいものではなく、その心をじんわりひんやりと責め立てて来るものだった。
父親が彼女を寒がらせないようにと、その暖炉の火が絶えないように充分な薪がくべてあった。
まさか娘が迫り来る死をその揺れる火の向こうに感じていようとは、父は思いも寄らなかったのである。

 

 

所属しているバレエ団で、内部の苦しいオーディションを勝ち抜いて、彼女は『くるみ割り人形』公演の主役の座を掴んだ。
16歳の華が今まさに、漸く掴んだそのポジションを得て開花しようとしていた。
彼女が病いに倒れたのはそんな絶大なるチャンスを物にし始めた時だったのだ。
サナトリウムに隔離され、胸の奥底から湧き上がって来る忌まわしい咳に絶えず悩まされながら、彼女はレッスンに出られない事にただただ焦りを覚えた。
自分のいるその場所。
嫌でも我が身を冒している病いの名を知る事になる。
なぜ、私なの? なぜ今なの?
そんな思いに苛まれる毎日。
彼女にとってはただ無駄な日々が過ぎて行くばかりだった。
トウシューズを履かなくなって、何日が過ぎたのか……数える事は却って彼女の苛立ちを募らせるばかりだった。
家族しか面会にやって来ないこのサナトリウムにいつまで閉じ込められていなければならないのか?
このままでは、バレエ団のライバル達に鼻を明かされてしまう。
私の主役の座はもう誰かに奪われてしまっているかもしれない。
家族に聞いても、バレエ団の事は解らないとしか答えてはくれなかった。
パパ、それが私に対する愛情だと解っているから……却って辛いのに。
もう1度、踊りたい。私の役なのよ。
私以外の人間が踊るなんて許せない……。

 

 

暖炉の火を見詰めている内に、彼女は心の内に何かがメラメラと燃え始めたのを感じた。
此処は家族全員が集う居間になっていた。
広いフロアがバレエの舞台に見えて来る。
それまで何か遠く冷たく感じていた暖炉の灯りが、突然彼女を照らす照明に変わった。
本来ならば、療養所からは出られないまま死を迎える処を、それが我慢ならなかった父の手によって、彼女は家に引き取られた。
まだ結核の予防注射など無い時代の事、無謀だとさんざん療養所の職員達の反対を受けながら、父は愛する娘の為にそれを決行した。
後でこの家は焼き払われる事になるかもしれない。
もう末期の彼女の病いは、伝染力も強まっている。
自分達も感染する危険を犯してまで、父はそれをした。
早くに同じ病気で亡くなった母はサナトリウムの中から出る事なく逝っており、父にしてみれば当然の行動だったのだろう。
その為に、3人程いた女中達はこの家を去って行った。
父は良い所の出で、この家は裕福だった。母が亡くなる前から女中を置いていた。
女中達は彼女を可愛がってくれたものだが、やはり死病を患った彼女が戻って来るとなっては、自分の身が可愛くなるのは仕方の無い処だろう。
父は黙って、知り合いなどを伝手に、女中達に新しい奉公先を世話し、更に充分な慰労金まで渡した上で送り出してやったのである。

 

 

冷たかった筈の暖炉の火は、実は眩しい程明るく、そして暖かだった。
急ごしらえで居間に持ち込まれたベッドから、彼女は驚く程、すんなりと自然な動作で起き上がった。
いつも枕元に置いていた本番用の大切なトウシューズを履く。
爪先にはきちんと詰め物をして、しっかりと紐を結ぶ。
普通なら、この時点でもう息切れが酷い筈なのに、今の彼女は違った。
何か憑き物が憑いているかのように、生き生きときびきびと動き出した。
フリルの付いたネグリジェを衣装に見立てる。
彼女は静かに導入部から踊り始める……。
手の表情、足の捌き……上品なまでに美しいその踊りを、目覚めた父は夢でも見ているかのように、息を呑んで眺めていた。
娘のバレエを見た事が無い訳では無かった。
だが、今の踊りは、今までに見た事が無い程の出来栄えで、賞賛に値すると贔屓目なしで父は思った。
母親もバレリーナであったから、彼の眼は肥えている。
今まで見たどの『くるみ割り人形』よりも、娘の踊りは優れている。
情感に溢れ、指の先から爪先まで、全てに神経が行き届いている。
父親は娘の最後の舞台の目撃者となるべく、そっとレコードを掛けてやった。
娘は蓄音機から流れる音楽に乗り、より一層華を咲かせて見せた。
相手役が居ないのが可愛そうだが、父にはバレエの素養が無い。
しかし、彼女はソファの上に起き上がっている父の元に踊りながらやって来て、その手をそっと取った。
父は躊躇いながらも、娘のラストダンスに見様見真似で付き合う事にした。
何度となく見ていた『くるみ割り人形』、父は男性が女性をリフトするポイントなどは何とはなしに覚えていたのだ。
より軽くなってしまった娘を肩に乗せるようにして、高々と優雅に持ち上げる。
第一幕を踊り切った彼女は、ポーズを完璧に決めた後、突然、力尽きたように父の腕の中に倒れ込んだ。
暖炉の火に染められたのか、それとも自らの熱によるものなのか、その頬は真っ赤に紅潮していた。
息切れして、言葉を発する事が出来ないが、彼女の表情には満足げなものがありありと浮かんでいた。

 

 

彼女はそれを最後に昏睡状態に入り、2日後の朝に静かに息を引き取った。
本当の舞台では無かったが、我が家の居間で最後の踊りを、それも父と踊れた事が、彼女の心を解放した。
恐らく死は恐ろしいものでは無くなっていたのではないか、と父は今、2次感染防止の為に思い出の浸る間もなく焼却され崩れて行く我が家を包むその火を見詰めながら思っている。
彼が感染していないかどうかを調べる為に、サナトリウムの車が迎えに来ている。
安全が確認されるまで、暫くは彼も隔離される事になるだろう。
感慨に耽る余裕も無く、職員に急かされて車に乗り込んだ。
彼はもしサナトリウムから解放されても、この地に戻るつもりは無い。
覚悟の上とは言え、娘の思い出の残る家も失った今、この地に拘る必要は無かった。
消毒された娘のトウシューズを抱き締め、彼は静かに瞑目した。

 

 

− 終わり −

 

※この物語はキリ番を5つ貯めて下さったきたこ@香野由布さまに捧げます。丁度『くるみ割り人形』の公演をご覧になった後のリクエストでした。きたこ様、どうもありかどうございました。
なお、この作品はある雪深い国をイメージして書きましたが、短編ですので特に国名を限定する書き方はしませんでした。従って、『彼女』の名前も意図的に付けずに通しました。その辺りはお読みになる皆様のそれぞれのご想像に任せたいと思います。