DETECTIVE STORY

 

 

第2部 『 出航(さすらい) 』 (5)

 

 

救急車は三原署近くの警察病院へと向かった。
奇跡的にだが、祐介の心臓はまだ弱々しくも鼓動を続けていた。
肺が相当やられているらしく、呼吸の方がともすれば途切れそうになる。
救急隊員は必死に酸素吸入器を祐介の口元に当て、少しでも呼吸を楽にしようと努力してくれているが、それも芳しくはなかった。
もはや人工呼吸も心臓マッサージも出来るような状態ではなく、隊員はとにかく一刻も早く警察病院に着くように、とだけひたすら祈っていた。
彼らはこんなにひどい状態で『生きて』いる人を見た事が無い。内心驚いている。
これだけの精神力で死と闘っている男とは初めて出逢った。
まるで残照のように最後の瞬間に再び輝こうとしている祐介の闘い振りが、深く心に染み入っていた。
そばに着いている2人の救急隊員も、何としてでも祐介を助けたい、と心から願った。
どんな患者であってもその思いは変わらないが、祐介の場合はこれ程の重態でありながらの事だけに、彼らは一層強く願いを込めて、街中を一路警察病院へと走り抜けた。
付き添って同乗している沢木も、救急車輌の少しの揺れが祐介の生命取りにはならないか、と神経を尖らせながら蒼白な表情で祐介を見守り続けていた。
病院に着くと、搬入口で外科の宮本医師が万端の準備をした上で待ち受けていた。
「緊急オペだ。直接手術室へ!」
宮本は処置室へ搬入していたのでは間に合わないと判断したようだ。
彼の指示に従い、救急隊員がストレッチャーごと手際良く祐介を降ろした。
そのまま祐介の身体を気遣い乍ら、ストレッチャーはそろそろと看護婦達によって手術室へ運ばれて行く。
移動しながら救急隊員から、決して良くはない状態の血圧や脈拍の数値の報告を聞き、宮本は祐介のワイシャツをはだけて、傷の具合を見、脈を取った。
その瞬間の宮本の難しい表情は、今まで沢木にも見せた事の無い物だった。
宮本は元刑事で沢木の先輩に当たる。
刑事であるが為に、妻子を事件に巻き込まれて失い、犯人を検挙した後に刑事を辞めた。
元々医学部を出て外科医師の免許を持っていた彼は、それから改めて医学の道へ進んだ変わり種である。
祐介の事は、沢木も宮本も、新聞記者だった彼の死んだ父親を介して、小学生の時分から知っている。
年の離れた弟のような祐介を死なせたくない思いは同じである。
10代で天涯孤独の身となった彼には、もっと幸せな思いを味わわせてやりたかった。
宮本は絶望的な思いに刈られながらも、てきぱきと止血処置をし、ある看護婦にはシャツを鋏で切って取り除くように指示し、別の者にはステロイドを静脈注射させた。
とにかく時間が無いのだ。
いつ、呼吸が途切れ、心停止が起こっても、全く不思議ではない。
出血量が半端ではなかったので、すぐに輸血処置を始めたが、輸血をしている端から出血してしまっているような状態である。
宮本は緊急手術の開始を急いだ。
麻酔が効き始めるのを待つ間もなく、祐介は手術台の上に蒼白な肌で横たわっていた。
宮本は「大変な手術になる事を覚悟してくれ」と悲壮な顔で沢木に言い置いて、自らの心を落ち着けようとするかのように、1度深呼吸をしてから手術室の中へと消えた。

 

 

手術室に入ってから、傷口のレントゲンを撮った。
レントゲン技師が撮り終えたフィルムを持って、慌ただしく手術室から飛び出して行った。
普通なら術前に全て終わらせて置くものだが、この場合、そんな悠長にしていられる容態ではなかった。
宮本は慎重に胸や腹を筋肉に沿ってメスで切り開いて行く。助手にひとり、後輩の外科医師が着いている。
剥き出しになる臓器。
心臓は奇跡的に無傷だった。
しかし、ディスプレーがそれを示しているように、動きが緩慢で力無い。
更に深刻なのは、既に自力では出来ない呼吸の方だった。
気道を確保し、酸素吸入器を装着し、人工的に呼吸をさせていると言った状態である。
そこには本人の意思は存在しない。
これを外してしまえば、祐介は間違いなく、即生命を落とす事になる。
大切な生命綱と言って良い。
それより驚くべきは左右の肺に受けた弾丸の数だった。
レントゲンの結果が届くまでは、眼に見える弾丸を取り除いて行くしかない。
宮本は、いよいよ無数の弾丸と格闘を始めた。
肋骨が弾丸により砕けて、両方の肺に突き刺さっている事も開胸により、解っていた。
「血圧が異常に低下していますっ!」
麻酔科グループから悲鳴のような声が上がる。
「輸血パックが足りんっ!大至急用意してくれっ」
宮本の額から大粒の汗が吹き零れ、看護婦がピンセットで挟んだガーゼでそれを拭き取る。
彼が右往左往する姿はまるで、戦場さながらの光景であった。
レントゲン技師が大急ぎで現像した写真を持って戻って来る。
蒼ざめた顔をしていた。
早速、準備段階で手術室に持ち込んであった、レントゲン写真用の表示台に写真を挟んで、手術中の医師らに見える位置へと移動させた。
銃弾の総数は20発を超えていた。
レントゲン技師が発見した弾丸の位置を説明する。
傷付けられた臓器は肺と胃だ。特に右肺に9発、左肺に7発入っている。後は左肩、左上腕部にも弾丸が残っている。
「胃の方は腹膜炎を起こしている可能性があります」
技師の報告はそれで終わった。
宮本達はその報告を聴きながらも手は決して休めない。
息を衝く間もない程、ハードな容態だったのだ。
「応援依頼を頼む。腹膜炎の方まで手が回らないっ!!」
宮本の苛立つような声がして、看護婦の1人が内線電話を取った。
やがて慌ただしく足音を響かせて、40代半ば位の医師が、手術着を着る間ももどかしく、駆け付けて来た。
外で待っている沢木に目礼をしたが、状況説明をする余裕など全く無い。
沢木は絶望的な思いに襲われて頭を抱えた。
丁度そこに、同じ警察病院の小児科にインターンとして勤務している沢木の年の離れた妹・瞳が、婦長に知らされて飛んで来た。
沢木瞳は、清楚で美しく優しい顔立ちを持っているが、どちらかと言うとまだあどけない、まるでフランス人形のような、と言っても過言ではないような可愛い女性である。
祐介より4つ下の22歳だった。
駆け付けて来た時、彼女はすっかり血の気を失って、色白の肌を更に蒼白くしていた。
まだ愛を語り合った事はなかったが、彼女は祐介と相思相愛だったのだ。
お互いに愛しく思っているが、それを相手に伝えていない。
2人とも誰にもそのような素振りを見せなかったが、沢木だけはそれぞれの気持ちに気付いていた。
そして、彼らの恋が愛へと育って行くのを、暖かく見守ろうとしていた。
瞳は駆け付けた医師が何を専門にしているのかを知っている。
兄の横でソファーに泣き崩れた。
それでも、彼女は医師の端くれとして、自分を気丈に保とうとしていた。
その姿が余りにも痛々しくて、沢木は無言で妹の肩を抱いた。

 

 

宮本達は必死に祐介を連れ去ろうとする死神と格闘した。
手強い相手だった。
時間だけが嘲笑うかのように刻々と過ぎて行く。
既に手術開始から4時間半が過ぎようとしていた。
それだけ難しい手術であると言う事だ。
彼らは出来うる限りの最善の手を尽くしていた。
このままでは、祐介の肺組織は死んでしまう。
いや、もう既に右肺は死んでいた。
宮本は止むを得ず、それを摘出した。摘出した肺はぼろ切れのようになっていた。
左肺は辛うじて右肺程の傷みではなかったが、下3分の1は切除せざるを得なかった。
肺の温存は諦め、人工心肺で生き長らえさせる方法を取るべきか。
宮本は逡巡した。
人工心肺とは、通常心臓手術などの時に、一時的に心臓と肺の機能を代行する物である。
下肢を切開し、そこに大きな人工的な器械を取り付ける。
そこに血液を流して、ポンプの役割を代行させるのだ。
今の祐介の手術には、心臓手術ではないので使用していないが、それは本来、継続的に使う物ではない。
体力が回復したら取り外す物なのだ。
もし、長期間使う事が出来るとしても、1日や2日単位で何度となく交換しなければならないだろう。
だが、そうすれば祐介は一生、ベッドの上で生きて行く事になる事は避けられない事実だ。
人形のように寝たきりになってしまうだろう。
生きるの最も必要な肺が、自らの身体では機能しないのだから。
それは果たして祐介が望む事なのだろうか………?
彼にとって、そのような状態は『生きている』と言えるのだろうか?
宮本は手を動かしながら苦悩していた。
その時だった。
麻酔科の医師が悲鳴のような声を上げた。
「心拍数が急激に低下!30、いや20を切りますっ!!」
「血圧も急低下しています!」
先程まで弱々しくも動きを示していた心電図のモニターの曲線は、虚しく波打たなくなり、ピーッと言う音と共に、心停止を表わす一筋の直線が画面を左から右にゆっくりと移動した。
そして、モニターの全ての数値は『0』になった。
「心停止……です………」
………………良く頑張った。
祐介も、そして医師達も……
看護婦の1人が、祐介に向かってそっと手を合わせた。
だが、まだ宮本は諦めてはいなかった。
「君は、若くしてこのまま死ぬのか?全然、いい思いをしていないじゃないか?……幸せになる権利が君にはあるんだ。生きてくれっ!………死ぬなっ!……還って来いっ!」
心臓を直接マッサージしながら、宮本は必死に祐介に呼び掛けた。
眼にはうっすらと涙が滲んでいた。
宮本はそばにいた看護婦に、沢木を中に入れるように指示した。
看護婦は弾かれたように手術室の外に向かった。
「風見さんの心臓が停止しましたっ!宮本先生が、沢木さんに中に入って戴くようにと………」
身体を雷に打たれたような衝撃が駆け抜けた。
顔を出した看護婦に従って、沢木は手を消毒し、使い捨ての手袋と、白衣とマスクを身に付けさせられ、手術室へと入って行く。
瞳は『心停止』の単語を聴いた瞬間、気を失って床へと倒れ込んでしまい、通り掛った婦長に介抱されている。
婦長は、愛しい娘でも愛でるように「可哀想に……」と呟き、ソファーに寝かせた瞳の額に貼りいた髪をそっと掻き上げてやった。
  

  

− 第2部 (6) へ 続く −