DETECTIVE STORY

 

 

第2部 『 出航(さすらい) 』 (6)

 

 

沢木は最初に眼に飛び込んで来た祐介の余りにも痛々しい姿を見て、とても先程まで『生きて』いた人間とは思えず、眼を背けてしまった。
苦しい闘いから、今、お前は開放されたんだな……
知らぬ内に涙が溢れて来た。
だが、宮本はまだ諦めずに祐介に心臓マッサージを施している。
「死ぬなっ!まだやりたい事が沢山あるだろう?……還って来いっ!………還って来いっ!!」
夢中で心臓を圧迫しながら、モニターに眼をやる。
麻酔科医は黙って力なく首を振る。
「手を、握ってやってくれ」
宮本は呆然と立っている沢木に気付くと、そう声を掛けた。
「還って来るように、彼を呼んでくれ。呼び戻すんだ!このままでは、こいつは…………」
先程の応援の医師が、腹膜炎の処置を終えていたので、沢木に場所を譲ってくれた。
沢木には臓器が剥き出しになった祐介の蒼白い身体を直視する事は出来なかった。
遺体解剖の立会いの経験は何度もある。しかし、祐介は『死体』ではない。
生身の彼を知っているだけに、平常心ではいられなかった。
それでも彼の右手をしっかりと握り締めた。
それはとても冷たい感触だった。
宮本は看護婦に向かい、電気ショックの支度を指示する。
それを予期して用意していた年配の看護婦が、即座に一対のコテのようなその器具を差し出す。
宮本がそれを使う度、祐介の身体はピクリと激しく上下に揺れた。
1回目。
心臓は停止したままだ。
「風見っ!死ぬなっ!みんなお前を待っているんだっ!俺達だけじゃないっ!お前が愛する瞳も、今、外でお前 の無事を祈っている。あいつの為にも、戻って来てくれっ!お前になら、いつでも嫁にやろうと決めていたんだ………生きろっ!生きるんだっ、風見!」
沢木は、祐介のスラッとした長い指を持つ、形の良い美しい手を痛いほど握り締めた。
男らしくごつごつしているが、繊細な印象の色白な手だ。
今は蒼白く冷たい。
間髪を入れずに、電気ショックの2回目。
心電図のモニターが一瞬波打つが、すぐに直線に戻ってしまう。
これ以上長く心停止状態が続いては、絶望的だ。
無酸素状態が続けば、もし脳死に至らなかったとしても、どう言う事になるか目に見えている。
3回目。祐介の全身がその衝撃を体現する。
奇跡は起こったか?
………………モニターは動かなかった。
宮本は長い溜息を吐き出し、無力感と喪失感に震えていた。
沢木は呆然と祐介の手を握り続けながら、彼の蒼白だが安らかな美しい顔を見詰めていた。
彼が吐いた大量の血は拭き清められ、酸素吸入器から微かに透けて見える、もう呼吸をしていない蒼白い唇が痛々しく感じられた。
誰もが脱力感に襲われていた。
これだけ頑張った祐介を、 誰も助ける事が出来なかったのだ。
医療に携わる者として、時に耐えなければならない感情である。
そして、それは決して風化させてはならない思いでもある。
重苦しい沈黙が手術室の中に充満した。
看護婦の中からは複数の啜り泣きが洩れ始めた。
その時、沢木がハッと顔を上げて、宮本を見た。
「指が……微かだが、指が動いたような……気がする」
震える声でそれだけをやっと口にする事が出来た。
誰もが沢木の希望から来る錯覚に過ぎないと思っていた。
まさか……?とモニターを確認した麻酔科医が、驚愕の表情で宮本を振り返る。
彼はその表情に輝きを取り戻していた。
「宮本先生っ!見て下さい、これを!」
ミミズが這うような微かな動きだった。
振幅の幅も小さく、動きの回数もまどろっこしい位に遅い。
しかし、それはその場の全ての者に光明を見出させるには充分な事だった。
「凄いっ!すごいぞっ!!」
オペ室の中の空気は一瞬の内に活性化した。
祐介のこの頑張りに答えなくては……全員が疲れを忘れて燃えた。
決して楽観が許されない病状ではあるが、「きっと助かる」と信じる事が出来た。
沢木は宮本の要請で、その後手術が終わるまで立ち会った。
手術が終わったのは、開始から11時間45分後だった。
祐介と医師達の闘いは丸半日掛かって、漸く1つの終わりを遂げた。
しかし、まだ新しい闘いが始まったばかりなのであった。
手術室から出て来た痛々しい祐介を迎えたのは、
傷の手当てを無事に終えてこの病院に入院している原と、気を取り直した瞳だった。
他の者達は、祐介の容態を気にしながら署で待機している。
「先生……」
疲れ切った顔で出て来た宮本に口々に声を掛ける。
「風見君は良く頑張った……だが、予断は全く許さない…」
宮本はそれだけを言って、ストレッチャーを運ぶように指示をした。
瞳は運び出されたそのストレッチャーに付き添って、足早に去って行った。

 

 

祐介は、その後10日もの間、意識不明で生死の境を彷徨い続けた。
点滴と酸素吸入だけで生きている。
整った顔にもやつれが見え、長い睫が却って痛ましい。
何よりも、元々スリムな身体付きなのに、更なる痩せが目立って来ている。
唇がガサガサに乾き、罅割れているのが、酸素吸入器の曇りの向こうに見て取れる。
手術は何とか持ち応えたとは言え、未だにいつ生命を落としても不思議ではない状態なのだ。
宮本は24時間体制の監視チームを編成し、その中心として集中治療室で祐介の看護に当たっている。
沢木は手術の翌日、宮本に呼び出され、祐介の容態と今後の事についての説明を受けた。
「先生。正直な処、風見の容態はどうなんです?」
沢木は余り良くない予感を打ち消すかのように、単刀直入に訊ねた。
宮本は優しい顔をしていた。
もう、自分はある覚悟が出来ていたからだ。
何かを達観していた。
失意は既に通り越していた。
それが祐介との永遠の別れに対する覚悟である事に沢木が気付くのには、それほど時間は必要としなかった。
「とにかく、生きているのが奇跡であるとしか言い様がない。それだけは始めにはっきり言っておく……」
宮本は溜息混じりに話し出した。
「あと、半年………半年生きてくれれば、良い方だろう」
最初から衝撃的な宣告がなされた。
宮本も辛いのだ。
いずれにしろ言わなければならない事を、勿体ぶって先に延ばすなど、彼には耐えられなかった。
弟のように思って来た祐介の事であるから、余計に。
辛い用事はなるべく早く済ませてしまおう。そう言う気持ちが無意識に働いていた。
早く、この苦しみを人と分かち合いたかったのだ。
沢木は、彼の言葉で衝撃に全身を貫かれていた。
宮本は彼が落ち着くまで待たなければならなかった。
「は……半年、ですか?」
数分は過ぎていただろう。
沢木はやっとの思いで強張った声を振り絞った。
宮本が再び話し出す。
「時間は掛かるが、意識は多分戻るだろう。まだ予断は許さないが………承知の通り、彼の右肺は全摘出した。辛うじて3分の2だけ残した左肺だが………機能的には、とても普通の生活が出来る物ではない。可哀想だが、彼はもうここからは出られないだろうと思う……」
「そ…そんな………」
「尽くせるだけの手は全て尽くした。だが、左肺はズタズタだ。1度は快復したかのように見えるだろう。だが……その左肺は日毎彼の身体を蝕み続け、何度でも大量の喀血を見るだろう……呼吸困難を起こし、身体は容赦なく衰弱して行く。彼の精神力でさえ、半年持つか持たないかだ。普通なら……」
宮本はそこで言葉を濁した。
沢木が沈痛な表情で訊ねた。
「あいつが大人しく病院で収まっていられるでしょうか?」
「問題はそれだな。しかし、刑事として現場に出るなど言語道断だ。彼を殺す事になるだけだ。自殺行為と言わざるを得ない。それに彼の身体が耐えられないだろう」
「私には解ります。風見はそれでもきっと現場に出たがるだろうと言う事が……限られた生命なら、それが少し縮まろうとも、生きたいように生きるでしょう。先生、彼に……宣告するつもりですか?」
「彼次第だが……風見君は勘が鋭いからな。隠し通せる自信は正直言って、全く無いよ……」
2人はそこで沈黙した。
心からドクドクと血が流れて止まらなかった。
いろいろなしがらみを捨てて、思い切り慟哭したかった。
「確かに……彼はその頭脳と行動力、デカとしての優れた洞察力、冴える勘……それに拳銃の腕も含めて、勿体無い程の力量を持っている。刑事としては申し分なさ過ぎる位だ。この天性と言うべき才能を警察としては放ってはおけないだろう。しかし、私はどうしたって彼を現場に出す事は出来ない……医師の立場で物を言わせて貰えば、そう言う事だ。彼の生命を少しでも永らえさせる事が私の使命だ………」
「…………………………」
「でもな。風見君が意識を取り戻した時に、あの鋭い勘で自らの死期を悟り、退院を哀願されたら……君も危惧している通り、彼を説得出来る自信は私にも全く無いのだ……私は途方に暮れている」
「身体が動かなければ、納得するでしょうか」
「風見君の事だ。動かない身体を無理にでも動かして見せるに違いないよ」
宮本は哀しげに苦笑いをして見せた。
「なぜ、こんな事に……一体あいつが何をしたって言うんだ……工藤は……犯人は、精神鑑定を受ける事になったんです。鑑定によっては……罪を問えないかもしれない………」
沢木は肩を落とし、俯いてしまったが、もしかしたら涙を見せたくなかったのかも知れない。
両膝に揃えた握り拳と、その肩が微かに震えていた。

 

− 第2部 (7) へ 続く −