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DETECTIVE STORY

 

 

第2部 『 出航(さすらい) 』 (7)

 

 

術後10日経ったその夜、集中治療室の隣にある管理室に詰めているスタッフが祐介の数値データの異常に気が付いたのは、深更2時を回った頃である。
パソコンの画面にいきなり、赤い『EMERGENCY』の文字が点滅状態で現われたのだ。
急いで集中治療室に入って様子を見ると、祐介の額に大量の汗が浮いていた。
モニターで体温のデータをチェックすると、それまで常に37.5度前後の微熱を発していながらも汗1つ掻いていなかった彼が、42度を超す高熱を出している事が解った。
良くも悪くも容態に変化があった事は間違いない。
執務室で待機中の宮本のパソコンにも同時に同じ警報が発せられている。
宮本はすぐに飛んで来た。
集中治療室の静寂が慌ただしく破られ、人の出入りが激しくなる。
看護婦が何人も足早に擦れ違い、深夜の集中治療室がさながら戦場のような雰囲気に包まれる。
「弱々しいが自力で呼吸を始めている。彼はまた闘い始めているのだ。意識が戻るかも知れないぞ」
発熱は祐介が新たな闘いを始めた証拠とも言えた。
ここは解熱剤の投与は止めて様子を見た方が良さそうだ。
そう宮本は判断した。
「心電図はどうだ?」
「脈拍113、血圧88の52です!」
「ちょっと脈が早過ぎるな。呼吸も苦しげだ。酸素の吸入量を100cc増やしてくれ」
宮本は祈るような気持ちで祐介の顔色を見ている。
まだ生気はない。
しかし、汗は後から後から噴き出している。
痩せて薄くなった胸が僅かに上下して、漸く肺が機能し始めているようだ。
周囲の期待は嫌が応にも高まった。
祐介の意識が戻ったのは、夜が白み始めた時分だった。
苦しげに肩を大きく揺らし、微かに睫をピクリと震わせてから、重たそうに瞼がゆっくりと開いた。
暫く呆然と天井を眺める祐介に、宮本がそっと声を掛ける。
「気分はどうだ?痛みは無いか?」
祐介は思うように動かない鉛のように重い腕を、必死に顔の方まで上げて、酸素吸入器を外したいと言う素振りを見せた。
酸素吸入器は口に咥える形の物に変わっている。
看護婦が毎日、彼の髭を剃り、清拭し、肌がかぶれないように吸入器を固定するテープを貼り替えていた。
「まだ無理だ。もう少し我慢しなさい」
宮本が諭すように言ったが、祐介は何か苦しそうにもがいている。
意識が戻ったからと言って、完全に快復した訳ではない。その事は宮本が一番良く知っている。
「解った。少しだけなら外してもいいだろう」
宮本は自らの手で酸素吸入器を外してやった。
祐介は大きく息を衝いた。
その次の瞬間、彼は胸を掻き毟るような動作をし、身体中を痙攣させた。
唇からは大量の深紅の血が溢れ出していた。酸素吸入器を外したがったのは、既に喀血が喉に溢れんばかりになっていたからに違いない。
その唇は血を吐きながらも何かを言いたそうにしていたが、言葉を発する事は全く出来なかった。
床に臥したまま、胸を、シーツを真っ赤に染めながら、祐介は何度も何度も血を喀いた。
肩を喘がせ、苦しそうに胸を泳がせながら際限なく血を吐き続けるその姿は、医師である宮本でさえも、痛々しくて眼を背けたくなるような光景だった。
しかし、彼は決して内心の動揺を見せず、冷静に処置に移った。
喀血を喉に詰まらせて窒息しないよう、スタッフに手伝わせて祐介の身体を横向きにし、口腔内の物を吸引した。
3分の2になった片方の肺だけから排出されたにしては、驚く程多い血液が吸い出された。
やっと喀血が落ち着いた時には、既に祐介は首をがっくりと垂れ、再び意識を失ってしまっていた。
看護婦が3人掛かりで、彼の唇や胸を汚した血を拭き取り、口腔内の洗浄を行ない、病衣を替えた。
血に塗れたベッドからそっと別に持ち込んで来たベッドに移し、外したばかりの酸素吸入器が再び付けられた。
ベッドは汚れたシーツ毎、集中治療室の外に出され、それと入れ違いに宮本の指示で輸血パックが持ち込まれた。
すぐに輸血が開始される。
先程の喀血量を考えると、かなりの量を輸血せねばならないようだ。
だが、決してマイナス材料だけではない。
祐介は血を吐きながらも、少しずつ身体の機能を取り戻しつつある事をデータが如実に示し始めていたのである。
まだ、何度か大きな喀血があるだろうが、一旦は恐らく快方に向かうだろう、と言うのがスタッフ一同の共通した見解だった。
但し、祐介がベッドを離れて再び立ち上がる事が出来るのかどうかについては、彼の強い精神力を考え合わせても、全員が疑問符を投げ掛けたのであった。
宮本が沢木に宣告した『あと半年の生命』と言う期間は、彼が退院して外で活動する事などを考えに入れた期間ではない。
病院内で死が訪れるまで、様々な医療機器に包まれ、管理されながら生き長らえると言った事なのだ。
つまり少しでも祐介の生命を引き伸ばすと言う観点によるものだ。
宮本はあの日、沢木に『途方に暮れている』と言ったが、それは祐介にとって、病院に寝たまま朽ちて行く事がとても残酷な事になるだろう、と言う事が嫌と言う程解っていたからに相違なかった。
遅かれ早かれ彼を失う事だけは明らかだ。
それならば、彼が望むのなら思い通りにさせてやる事が、祐介にとっては一番幸せなのではないだろうか………
自分は必死になって彼の生命を救った。
だが、それが却って彼に辛い思いをさせる事になるかも知れないと言うジレンマに、今、宮本は苦しんでいる。
刑事の仕事を全うさせた事によって、その生命が半分の3ヶ月に短縮されようとも恐らく祐介は後悔はしないに違いない。
きっと満足して、死んで行くだろう。
宮本は医師として、古い旧知の仲として深く悩んだ。

 

 

2度目に祐介が意識を取り戻した時、早くも宮本が危惧していた事が起こった。
丁度その時は、沢木が見舞いに来ていて、病院側の特別な配慮により、マスクと帽子、そして白衣を着た姿になって祐介の枕元に座っていた。
祐介はあの大喀血から、丸1日半もの間、意識が回復していなかった。
そのような状態にも拘わらず、祐介は沢木の存在に気が付いた。
酸素吸入器を咥えているので、喋る事が出来ない。祐介は何かを言おうとして、小さくうめいた。
「無理をするな。疲れるぞ。今、先生に連絡するから」
沢木は優しくそう言うとそっと立ち上がったが、管理室にいるスタッフが気が付いて連絡をしてくれている様子なので、再び丸椅子に座った。
祐介が何を言いたいのかは解っている。多分、1人で突入した事についての謝罪の言葉だろう。
沢木は、前回彼が意識を取り戻した時の大喀血の事を宮本から聞いて知っている。
思わず祐介の手を握った。
「言わなくてもいい。解っているから」
手術室の時とは違い、弱々しくはあるが、祐介は確かに沢木の手を握り返して来た。
祐介は起き上がろうとしてもがいたが、沢木には彼が痛々し過ぎて、それに手を貸す事は出来なかった。
宮本が駆け付けて来た。
データを確かめてから、酸素吸入器を外してやる。
「ゆ…みちゃ、ん…と、郁江、さん、は…?」
祐介には、人質になった少女と、その母親の事がまず気掛かりだった。
「心配するな。大丈夫だ。奥さんはもう退院しているし、裕美ちゃんは倉本さんと毎日お前の様子を見に、ここに 来ているぞ」
沢木が静かに答えた。
「先、生……」
祐介は初めて宮本を呼んだ。
「デカ、長も……知っ、て…い、るの…で、しょう?」
掠れた、消え入りそうな声をやっと絞り出す。
苦しげだが、何か『これ以上喋るな』とは言わせない強い意志がそこにあった。
「俺、は……あと、どの、位、生きられ、る…ので、すか……?」
それだけの事を言うのに、既に疲れている。
はぁ、はぁ、と肩で苦しそうに深い呼吸をする。
宮本は酸素吸入器を持ったまま待機している。もう限界が来ている。
「先生達、の、お…陰で、本来、なら……死ん…で、い…る所を、助け、て…戴き、ました……」
祐介はそこで、またしても全身の痙攣を起こした。
「あ………」
彼の唇のガードを突破して、声とともに大量の血が迸った。
「風見君、話は後で訊くから、少し安静にしていろ。大丈夫だ、心配はいらない」
宮本が、まだ話したそうな祐介の苦しげな肩を押さえて止めた。
心配いらないと言うのは嘘だ。
宮本はスタッフに小声でいろいろな指示を出している。
祐介はいやいやをするように、両肩を押さえる宮本の手を力なく振り切って、
「また…意識が、無くなら、ない…内に………」
言いながら血を吐き続けるその様は、凄惨と言うより他はなかった。
「………言って、しま、い…たいん、です……」
もう、半分は意識が混濁し始めている。
その状態で彼が何を言おうとしているのか、宮本にも沢木にも痛いほど解っていたのだ。
苦しくて堪らない。
もう言うな。言わないでくれ………
2人は耳を塞ぎたくなっていた。
「俺に、は……まだ、やり…たい……やら、なけ…れば、ならない、事が……沢山、あり…ます……だから、ここ …で、死、ぬ…訳、には……行かない……」
声が続かない。祐介は苦しげに息を衝く。
喀血は一向に収まらない。
彼は既に意思の力のみで、何とか遠くなるその意識をここに留めている。
まるで遺言を残そうとしているかのようだった。
そう言う鬼気迫る様子が、周りを圧倒していた。
「うっ………………!」
大きな波が来た。
祐介は唸りながら、暫く話を休むしかなかった。
喀血は休み無く彼を襲う。
しかし、看護婦が持って来た吸引用の機器を口の中に入れるのを、祐介は顔を背けて拒んだ。
それをすれば楽にはなるが、話は続けられなくなる。
看護婦は困ったように宮本を見た。
宮本は止むを得ず、首を横に振った。
輸血パックが用意され、先程から点滴されているが、まるで輸血した血液がそのまま唇から体外に出ているのではないか、とまで思えた。
(もう、駄目かも知れない………)
不吉な思いが宮本の脳裡をよぎった。
想像以上にひどい喀血だったのだ。
祐介はすぐそこに近付いている自分の死を予測して、無理をしてまで話を続けようとしているのではなかろうか………?
宮本は看護婦に、同じ病院で働いている沢木瞳をここに連れて来るようにと命じた。
逢いたいだろう、逢わせてやりたい……そう、強く思った。
この前、意識を取り戻した時には、逢わせる余裕が無かった。
何とか意識が残っている内に……何とか……早く……!
そんな事を考えていた合間に宮本はフッと正気になり、医師である自分が弱気になってどうする!と自らを叱咤した。
ふと沢木を見ると、彼は蒼白な表情にはなっているが、祐介の血の気の全くないその手を握って離さない。
そして、自らの喀血に塗れた彼からも視線を逸らさない。
覚悟はまだ出来ているとは言えなかったが、こんなに苦しんでいるのなら、もう楽にさせてやりたい……沢木はそう思っていた。悲惨な状況を目の当たりにしているだけに、祐介の痛み苦しみが直に伝わって来て、辛かった。
しかし、彼の苦しみと向き合ってやろう、と言う決心を、沢木は今、付けていた。
「風見……お前の言いたい事は、良く解っている。今はとにかく身体を快復させる事だけを考えろ!……宮本先生には、なるべく早くデカに復帰出来るように、俺から頼んでおく……」
祐介はハッとしたように、眼を瞠り、沢木を見詰めた。
やはり、この人は解ってくれている………
そんな安堵と感動がその弱々しい視線に溢れていた。
喀血は少しずつ収まっていた。
宮本が看護婦に指示をして、点滴に混ぜた止血剤が効き始めて来たようだ。
宮本は沢木の言葉に呆気に取られていたが、やがて諦めたらしい。
「そう言う事だ、風見君。沢木が請け負ってくれたんだ。彼は必ず実行するだろう……安心しろ」
沢木と宮本が、2人で平等に、辛くて重い荷物を担いだ瞬間だった。
祐介はやっと吸引器を受け入れようとした。
その直前に一言だけ口にした。
「あと、どの位……生きて、いら…れるので、しょうか………まだ、それを聞、いて、いな、い……」
祐介はその答えを聞く事が出来なかった。
そこに涙を眼に一杯溜め込んだ白衣の瞳が駆け付けて来たからだ。
祐介は懐かしい物を見たように、血塗れの痛々しい唇で微かに微笑んで見せた。
その時、彼の網膜は確かに愛しい人だけを映し出していた。
何か言いたげに唇が動き掛けたが、そこまででさすがに祐介の気力も尽きた。
とうとう意識を失ったのだ。
しかし、唇にはその微かな微笑みがまだ貼り付いている。
血に塗れているその蒼白なやつれた顔は、なぜかこの世の物とは思えない耽美的な美しさを湛えていた。

 

− 第2部 (8) へ 続く −