DETECTIVE STORY
第4部 『 黄昏迄 』 (1)
風見祐介は、張り込み中の路上で、突然の激痛に襲われ、人目を避けるように路地裏に飛び込んだ。
そのまま崩れるようにその場に蹲り、彼はひたすら苦しみに耐えた。
あの………忌まわしい事件から11ヶ月が過ぎていた。
そして今、彼の容態はついに坂道を転がり始めていた………
祐介は堪え切れず、大量に喀血してしまった。
急速に彼の顔は蒼白になって行く。
唇から溢れる血は、彼の手では押さえ切れない。辛うじてスーツを汚さないようにするが精一杯だった。
祐介は肩で喘ぎながら、大通りを行き交う人々を見ている。
全ての者が生き生きと目映い物に映る。
それに引き換え、自分は……もう襤褸切れのように壊れて行くばかりだ。
くそっ、と思わず呟いて、彼はよろめきながらもやっとの思いで立ち上がる。
自分の思い通りにならない身体が恨めしい………
そう思いながら、祐介は重い身体を引きずるように、さり気なく持ち場に戻った。
転々と散らばり張り込んでいる仲間達は、少しも気付いていない。
彼らの注意は1点にしか集中していないのだから、当たり前であるが、それが祐介にとっては唯一の救いであった。
(俺は、あの時死んでいたって不思議ではなかった……この1年がおまけだったんだ。あと何日生きられる?そ の間に何が出来る?)
祐介は喫茶店の窓際にいる目標の男を見ながら、込み上げて来る死の恐怖と闘っていた。
刑事だって人の子だ。死ぬ事に対して恐怖を覚えない訳が無い。
祐介は不意に頭を振った。まるでそれは愚かな心を追い出す儀式のようであった。
男が席を立った。支払いを済ませて出て来る気配だ。
祐介は、スーツの内ポケットに隠し持った小型トランシーバーに囁き掛け、仲間達に指示をする。
「恐らく榊原は峰と接触する。早まるなよ。ここで気付かれたら元も子も無いぞ」
彼は若い乍らも、三原署捜査一課の中核として欠かせない存在となっていた。
沢木がいない時には、自然現場を仕切るのは彼の役目である。
刑事達はチームワークで尾行を開始する。
祐介は苦しげに汗を掻きながらも、必死に歩き続けた。
やがて、男は場末のしけたバーにぶらりと入って行く。
原優、戸田一郎、早瀬務の3刑事は、男に続いて中に入り、相手を確認してから彼らに歩み寄る。
「榊原幸作、及び峰和雄。傷害の容疑で逮捕する!」
原が警察手帳と逮捕状を提示すると、2人は脱兎の如く裏口へと殺到した。
が、刑事達は慌てない。
裏口には祐介が張り込んでいるのだ。
祐介は必死に追った。しかし、肺の悪化で走る事が苦痛になっていた。
逃げる榊原と峰の姿が二重になり、やがて霞み始める。
ついに呼吸困難に陥り……胸部に激痛が走った。
彼は溜まらず肩膝を付く。
先頭を切って追っていた祐介が抜け、残った3人の刑事が彼を置いて走り抜けて行く。
とうとう、足手纏いになってしまった………
祐介は、唇の血を手で拭った。
苦しい呼吸の中、遠ざかる彼らの姿を見送る彼の眼は、悔しげな光を宿していた。
「どうしたんだよ、お前!あんな所でミスるなんて、三原署の敏腕刑事の名が泣くぜ。どうにかパクれたから良かったけどよ」
署に戻ると戸田がわめき立てた。
「済まん……」
祐介は一切弁解をしなかった。
沢木邦彦部長刑事は、そんな彼の瞳の奥に湛えられた深い哀しみを、肌で感じ取っていた。
祐介が不憫でならなかった。
自分だけが知っている事の真相を、皆に言ってしまえたらどんなにか気が楽だろう。
しかし、祐介の気持ちを考えると、どんなに辛くとも、自分だけの胸に仕舞って置かねばならなかった。
いつか皆に知れてしまう時が来る。
だが、それは、自分の右腕と頼りにしている男と、永遠の別れをしなければならない時だ。
沢木には、ただその日が今日でない事を祈る事以外に成す術は無い。
この11ヶ月………良く耐えてくれたものだ、と沢木は祐介を見ながら思う。
病院に大人しく寝ていればこそ、半年の生命との宣告であったが、弱り切った身体に鞭を打ちながら現場の刑事を続ける事で、その余命は半減すると医師に言われていたのだ。
祐介は生命を削ってでも、刑事としての自分を全うする道を自ら選択した………………
そして、奇跡的にも彼は今日まで11ヶ月もの間、苦しみと闘い抜いて来た。
それは医師団にある期待を抱かせるには充分な事だった。
もしかしたら、彼はこのまま生き抜くのではないかと。
しかし、それは錯覚に過ぎない事は彼の担当の宮本医師が一番良く知っていた。
宮本は、沢木にこう言っていた。
『ある日突然、坂道を転がるように悪化の一途を辿る』と。
その日がもう既にやって来ている事を沢木はまだ知らなかった。
祐介がひたすら1人で耐え、身体の不調を隠し通しているからだ。
しかし、沢木も彼の蒼白な顔色から、良くない予兆を感じていた。
帰り掛けに、沢木は祐介にそっと声を掛ける。
「明日は非番だったな……ちょっと顔色が悪いぞ。宮本先生に診て貰えよ」
祐介は首筋を硬直させ、少し引き攣った表情で、
「はい……」
と答えたが、密かに再入院させられる事を懸念していた。
宮本に診せれば、これ以上隠し通す事は出来まい。
その日、彼はふら付く身体を押して、仲間の誘いに乗り、居酒屋へと付き合った。
愛車は署に置いて来ている。
例え飲まなくても、今の彼にはそれを運転する事は危険過ぎる。
そんな具合なのに、無理をしてまで付き合うのは、やはり仲間達に不審がられたくない為であった。
しかし、彼は殆ど飲めなかったし、食べもしなかった。
身体がもう受け付けないのだ。
彼と同期の原が、それを少し気にして、
「お前、風邪でも引いたか?疲れてるようだな……熱は?」
と祐介の額に手を当てる。
祐介は何でもないよ、と避けようとしたのだが、間に合わなかった。
実際、熱はかなり上がっている感じだった。
「熱が出てるじゃないか。帰った方がいい。送って行くよ」
原が上着を取って立ち上がろうとした。
「いや、ありがとう。大丈夫だ。大した事は無いよ」
祐介は少し微笑んで、原の肩を掴んで止めた。
「それじゃあ、悪いけど先に上がらせて貰うよ」
早瀬が心配顔になった。
「先輩、疲れているんですよ、きっと……」
「明日はゆっくり休めよ!なっ?」
戸田も優しい声音になって、祐介の背中を軽く叩いた。
「サンキュー。みんな、ごゆっくり!」
祐介は必死に元気な所を見せて、自分が飲食した分には遥かに多い金額の紙幣をそっとその場に置いた。
その後、どうやって家まで辿り着いたのか、彼は全く覚えていない。
バス停から徒歩で5分の道を、休み休み20分も掛けて歩いた。
人から見たら、よろめきながら歩く彼の姿はきっとただの酔っ払いに見えたろう。
胸の激痛は絶えず彼を襲い、喉まで込み上げて来る喀血をひたすら堪えた。
しかし、途中で耐え切れなくなって、公園の植え込みの中に大量の血を吐いた。
どこまでも白いワイシャツを鮮血が染めた。
夜なのが救いである。幸い人目も無かった。
彼は再びゆっくりとだが、歩き出す。
血を吐きながら、激痛と闘いながら、ふらつく足を罵りながら………
やっとの思いで自分の部屋に辿り着いたが、扉の鍵を閉めた途端に、玄関口で倒れ込んでしまった。
身じろぎもせず、彼は明け方まで意識を失っていた。
全身に及ぶ激しい痛みで目覚めたのだ。
祐介はその端正な顔を歪めて、その痛みに耐えた。
やっと靴を脱ぎ、這うようにカーペットの上を行く。
完全に夜が明けるまで、ベッドに横になったが、一睡も出来ない程、彼を襲う痛みは強烈だった。
新しいタオルで唇を拭っても拭っても、すぐに喀血してしまう。彼の顔色は、まるで生ける者の物とは思えない程に、血の気を失っていた。
このまま……死んでしまうかも知れない………………
そう思った時、彼の脳裡に浮かんだのは、沢木瞳の姿。
祐介は彼女を愛しているが故に、それを告げずにここまで来た。
自分がもっと生きられるのなら……彼はとうの昔に瞳に愛を語っていたであろう。
いつか瞳も解ってくれるだろう。告白しない事が、彼の愛の証しなのだ、と言う事を………
− 第4部 (2) へ 続く −