DETECTIVE STORY

 

 

第4部 『 黄昏迄 』 (5)

 

 

祐介は医師団の手厚い看護によって、危険な状態から辛うじて持ちこたえた。
それは、彼の精神力以外の何物でもない。
彼は当然のように、すぐに退院を希望した。
医師団のメンバーも、祐介の不退転の意志を知り尽くしていたから、どちらかと言えば彼を応援する気持ちになっていた。
瞳はそれを聞いて猛反対したが、兄や宮本医師に祐介の強い意志を告げられ、大粒の涙を零しながら承諾した。
宮本は何も言わずに、祐介に鎮痛剤と止血剤を調合したアンプルと注射器を手渡した。
祐介は彼に心から感謝していた。
宮本の理解のお陰で、祐介は多分、満足して死んで行けるだろう………ただ1つを除いては………………
祐介が病室のベッドに蒼白な顔のまま腰掛けてネクタイを締めていると、その『1つ』である彼女が白衣姿で病室に入って来た。
「風見さん……」
2人はただ無言で見詰め合うばかりだ。
数分間の沈黙を破って、祐介は立ち上がり、口を開いた。
息苦しさから脱したかった。彼女を愛しては行けない……と言うその思いが壊れそうだったからだ。
「心配掛けて……済まなかったね………」
優しい視線を瞳に投げ掛けた。
瞳は眼を潤ませて、首を振る。
「何も……何も、言わないで!」
瞳はそのまま祐介の胸に縋り付いた。
「瞳、ちゃ…ん………」
「このままでいさせて………」
「…………………………」
祐介はついに、自分の心の箍(たが)が音を立てて外れたのを感じた。
そうして、思い切り強く彼女の細い身体を抱き締めたのだった。
それは本当の自分の気持ちに正直な行動であった。
「許してくれ……俺は、やっぱり君を……君を愛している………!」
許してくれ、と言った彼の気持ち。どれだけ辛かったのか痛い程に伝わって来る………
今、瞳の息吹が自分のこの腕の中に存在する。
その事実だけで、祐介は自分が溶けて無くなってしまっても構わないとさえ感じた。
そして、瞳の温もりを全身で感じ、覚えていようと思った。
暖かくて柔らかくて………瞳の肢体は、抱き心地が良かった。
「その言葉を聞けて…良かった………」
瞳は祐介の腕の中で頬を新たな涙で濡らす。
祐介は指で彼女の涙を優しく拭ってやった。
「君が欲しかった……この生命に……限りさえ無ければ………」
2人はごく自然に唇を重ねた。
瞳は背伸びをして2人の身長差を埋め………お互いを求めた。
柔らかく、暖かくて………とてもしっくり来る………共通の感覚を2人は感じていた。
こうなる事は自然の摂理だった。祐介があのような事にならなければ、もっと早くそうなっていた事だろう。
もはや2人が結ばれる事は有り得ないが、心は今、充分に満たされていた。
激しく甘く深く互いの唇を求め合い、密度の濃い熱い時間が過ぎて行く。
痺れるような感覚が2人を包んだ。
2人の唇は重なり合うこの瞬間の為に存在していたのか………そうとまで思われた。 
恐らく最初で最後の………哀しい口付けだ。
甘くとろけるような至福の時間は、長くは続かなかった。
祐介は急に彼女から身体を離し、激しく咳き込み乍ら、床に跪いた。
瞳は一生懸命、彼の背中をさすってやる。
堪らなかった………この運命は否応無しに受け入れざるを得ないけれど………でも、何て不条理な、運命。
やっと思いが通じたのに。
なぜ、こんな仕打ちが私達を待っているのだろう?
「済まない…俺は、最後の最後に来て………自分に嘘を……つき通せなくなってしまった………。心に、固く、誓って来た…筈、だったの、に……………」
「風見、さん………」
「君を遺して……死ななければ、ならない………だからこそ、俺は………」
祐介は苦しげな咳を繰り返す。
今にも血を喀くのではないかと、瞳は気が気ではない。
「いいの!いいのよ、風見さん!!………今、痛い程、あなたの気持ちが解る。私の心の中に流れ込んで来るの。あなたの思いが奥深くまで………あなたの口からはっきりと『愛している』と言って貰えて……あなたの気持ちが解って、私は幸せよ。ありがとう……」
瞳はまた、ハラハラと大粒の涙を落とした。
「泣き顔は、君には似合わないよ……俺は君の笑顔が、好きだ……」
祐介は最後に微笑んで見せた。
そして、フラッと立ち上がると、スーツの上着を手にした。
「じゃあ………」
彼は上着に袖を通すと、何かを断ち切るようにクルッと彼女に背を向け、病室のドアのノブに手を掛けた。
瞳は『行かないで!』と心で叫んだが、声にはならなかった。
身体もなぜか硬直したように動かない。
黙って、愛する者のやつれた背中を見送った。
彼に口付けされた唇だけが熱い。
さっきまで自分をきつく抱擁してくれた彼の優しい温もりを瞳は忘れない。
しかし……哀しい別れはもう眼の前に………
瞳は無人のベッドにしがみ付いて、涙が涸れるまで啜り泣いた。
病室の外で眼を閉じてドアに寄り掛かり、それを暫く背中で聴いていた祐介は、初めて頬に1本の涙の筋を作っていた。
やがて、彼は気を取り直して手の甲でそれを力強く拭き取り、何事も無かったかのように廊下を歩き出した。

 

 

宮本がくれたアンプルの効き目はあった。
仲間に自分のハンデを感じさせたくない祐介にとっては、唯一の心の救いであった。
祐介はこうして、いつものように皆と捜査が出来るのであれば、もう、いつ死んでも心残りはない、とまで思った。
瞳に心を残しつつも、彼女の事は思い切るより他に無かった。
周りの刑事達は、やたらに肉体的に祐介を庇おうとする処が見受けられ、彼はそれを嬉しく思う反面、負担に感じてもいた。
彼は急に1人になりたくなって、地下の射撃場へと降りて行った。
無人の射撃場で、マグナムを真っ直ぐに標的に向けた。
超一流の射撃の腕はまだ衰えていない。
弾丸は全て、黒点の中心に集中した。
祐介は暫く手の中の相棒を見遣った。
「お前とも、もうすぐお別れだな………」
彼は呟くと、リボルバー式の弾倉から薬莢を取り出して、弾丸を詰め替えようとした。
その時、突然の激痛が胸部に走り、祐介はマグナムを取り落として、前のめりに倒れた。
唇から溢れる鮮血………
薬を打っているお陰で、喀血の量は多くは無い。
祐介は壁に凭れて、苦しみが去るのを待った。
ポケットから取り出した注射器を腕に突き立てるが、すぐには効果が現われない。
やがては、アンプルも彼の身体には効果を示さなくなるだろう………
きっとその時が、この世との永遠の別れになる……彼は漠然とそんな事を思った。ふと、どこかで読んだ言葉が彼の脳裡に甦る。
『倒れるなら、前のめりに倒れろ!!』
(前のめりに倒れれば、少しでも前に進める…と言う事か?)
祐介は心で呟いた。
………………彼にしてみれば、今、生きている事さえ、奇跡と言えた。
発病して、半月………毎日、夜明けを迎える度に、
(ああ……俺は、今日も生きて朝を迎えられたんだ)
と思うような我が身が哀しい。
少しずつ身体が利かなくなって来ているのが如実に解る。
………ふと、思う。これ以上、生きている意味があるのか、と。
アンプルを捨ててしまおうか、と。
死んでしまった方が楽なのではないか………
いや、違う!
生きられる限り、精一杯生きなければ……それが、俺の生きた証しになるんだ。
つい、弱気になる自分を叱咤激励して、祐介は満身の力を込めて、立ち上がった。

  

− 第4部 (6) へ 続く −