DETECTIVE STORY

 

 

第5部 『 砂の迷路 』 (1)

 

 

「いらっしゃい!」
明るい女将が彼らを迎えた。
東京・新宿の伏見署員の松田梨樹と中村猛が、黒のスーツ姿でその小料理屋の暖簾を潜る。
2人の表情は、女将の明るさとは対照的だった。
別の中年客の相手をしていた彼女は、その客に会釈をして、2人の方に寄って来た。
「どうしたのよ!梨樹も猛君も………ほら、ここにお座りなさい。お茶でも入れるから………」
「おばさん……」
梨樹が哀しそうな眼を彼女に向けた。
彼にはおばさんに伝えなければならない事があった。
しかし、電話ではそれを言い出す事が出来ず、とうとう此処まで来てしまった。
梨樹は、遠回しな表現をした。
「………俺、射撃大会の出場、辞めたよ」
「どうして?」
「お手合わせ願った相手がいなくなっちまったんじゃ………仕方が無いじゃないか……」
彼にしては珍しく、力の無い声だった。両掌が震えているのにおばさんは気付いた。
「………居なくなったって……祐さん、どこへ行ったのよ?」
「亡くなったんですよ。昨日の夕方……」
梨樹が声を詰まらせて答えられないのを見兼ねて、猛が代わりに答えた。
「祐さんが…死ん、だ………?」
おばさんは持っていたお茶の缶を、震える手でカウンターに置いた。
今にも落としてしまいそうだったからだ。
「じょ、冗談にも程があるよ……エイプリルフールじゃあるまいし」
彼女は無理な笑いを作って、やっと声を絞り出す。
「祐さん、そこらに隠れてんじゃないの?」
「おばさん……こんな冗談、頼まれても言える訳が無いじゃないか………祐さんは、あの時の傷が悪化して… 逝ってしまったんだよ」
梨樹がほろりと涙を零した。
「そん、な………」
「祐さん、知ってたんだよ………自分の生命の限界を………それなのに、俺達に何も言わ、ないで………」
梨樹は言葉に詰まったが、気を取り直して続ける。
「あいつ、1人で苦しんでたんだ………俺は……何も気付いてやれなかったよ………………祐さん、どんなにか辛かっただろうに」
気付いていた処で、何もしてやれなかっただろう。
しかし、彼の苦しみをほんの僅かでも一緒に分かち合って、少しでも軽くしてやる事は出来たかも知れない……梨樹はおばさんから眼を逸らし、俯いた。
彼女の眼が次の瞬間光る物で濡れる事が予想出来たからだ。
『祐さん』こと風見祐介は、今年の初めに梨樹や牧野正義と此処に来たのを最後に、梨樹やおばさんの前にその姿を見せていなかった。
今思えば、病み衰えて行く自分を見せたくなかったのだろう。
1年前、梨樹と彼の間に1つの約束事があった。
『来年の射撃大会で銃の腕を競おう』と………
その射撃大会を前に、祐介は逝ってしまったのだ。
「おばさん……7時から三原署で通夜があるんだけど………」
梨樹が言い出すと、この話が始まった辺りから、飲食のペースを上げ出していた先客が立ち上がって、暖簾を中に仕舞った。
「女将さん、私らは帰るから。気にしないで行っておいで。勘定はツケにしておいて」
その男の連れも立ち上がる。他にはまだ客が無かった。
「ありがとう……」
おばさんは涙を拭いて、暖簾を受け取った。
彼女の自宅は店とは別にあるのだが、急に備えて、多少の物は奥の部屋に揃えてあった。
その中に喪服もある。祐介の為にそれを使う事になるなんて、予測もしていなかったのに………
彼女が着替える間、梨樹と猛はカウンターに腰掛けて待っていた。
警察学校で祐介と同期だった梨樹は、この店で彼と再会し、そして最後に逢った。
因果な思いが梨樹の胸を去来する。
そう言えば………去年、祐さんの見舞いに行った時に見た、あの白衣の女の子はどうしているんだろう……?
確か『デカ長の妹』で……原の奴、『瞳ちゃん』って言ってたな………
梨樹がそんな事を考えていると、仕度を終えたおばさんが戻って来た。
左手にしっかりと数珠を握り締めている。
3人は梨樹の車で出発した。
おばさんが急ぎ書き殴った『都合により休業させていただきます』の札が、店頭で寂しげに木枯らしに揺れていた。

 

 

車の中では始終、3人共口を閉ざしていた。
それぞれの胸に故人への想いが込み上げていて、とても口に出す事など出来ないでいる。
口を開けば、哀しみが堰を切ったように零れ落ちるに違いなかった。
風見祐介には身寄りは無く、彼が死ぬまで所属した三原署の大会議室で通夜が営まれていた。
ここは大事件の捜査本部が設置出来るような、100人規模の捜査員が一度に集まれる程の広さがある。
おばさんは涙を禁じえなかった。
ふと隣の梨樹を見ると、彼もまた溢れる涙を堪えていた。
故人の上司、沢木邦彦部長刑事が、彼の死に至るまでの苦しい道程をつぶさに語った。
祐介がどんな思いでこの1年弱の間を生き抜いて来たのか……そして、刑事を全うして来たのか………
沢木の言葉は淡々と続いたが、だからこそ聴衆に心に切々と響いた。
彼に続いて、警察病院の宮本医師が、祐介の身体がどんな状態であったのかを簡単に説明し、
「風見君は……立派に運命と闘い抜きました」
と締め括った。
梨樹達は焼香を済ませた後、棺の中に安置された祐介の遺体と対面した。
とても安らかで綺麗な顔をしていた。薄化粧を施されているので、まるで眠っているかのようだ。
今にも起き上がって来て、話し出しそうにも見える。
そこには苦しかった日々を思わせるものは無く………この世の物ではないような、儚くも美しい寝顔を見たような感覚が残った。
着せられた白装束が、痛々しく梨樹の眼に映った。
爽やかな白が似合う男だった………最後の門出に着る服もまた、白………
「祐さん………辛かっただろ?」
梨樹は絶句した。頭の中をいろいろな物が渦巻いて、夢と思い出と現実がごちゃ混ぜになっている。
棺の傍に屈み込んで、祐介と最後の別れをする。頬に触った感触はやはり冷たかった。
その梨樹の横で倒れそうに揺らいだおばさんを猛が横からそっと支えた。
おばさんの哀しみもまた深かった。もう大好きだった祐介の笑顔を彼女が眼にする事は無い。
後ろ髪を引かれる思いで棺から離れた梨樹の眼に、ふと沢木に支えられるようにして立つ、若い女性の姿が映った。
深いショックに健気にも耐えている様子が傍目から見ても痛々しく感じられた。
(可哀想に………)
梨樹は心で呟いてから、沢木に挨拶する為に、彼らの方へと歩き出す。
猛とおばさんも梨樹の後ろに続いた。
「風見や原から、君の事は聞いています。明日も仕事に差し支えが無かったら、告別式に来てやって下さい。彼もきっと喜ぶでしょう」
沢木は梨樹の挨拶に答えて言った。
「沢木さん……貴方も辛かったでしょうね………」
おばさんは沢木と何度か顔を合わせた事があり、目頭にハンカチを当てたまま彼に向かって呟いた。
「いえ…私よりも、これの方が……………」
沢木は自分の陰に入って、俯いたままの瞳に優しい視線を投げ掛けた。
その時、スッとおばさんが進み出て、慈愛を込めて彼女を暖かく包み込んだ。
梨樹は少し驚いたが、黙ってそれを見ていた。
「お泣きなさい。思い切りお泣きなさい……貴女の気持ちは痛いほど解るの………だから、ここで思い切り泣きましょう。そして…明日になったら、もう泣いては行けない。今日の内に涙を涸らしてしまいなさい………」
沢木瞳はおばさんの優しい胸の中で、しゃくり上げ始めた。
「貴女が……祐さんの愛した女(ひと)ね………例え短い間でも、祐さんみたいな素晴らしい男性に愛されたんだもの……貴女は世界中で一番の幸せ者よ……そう思わなくちゃ。そして、その素晴らしい彼の為にも、貴女は早く立ち直って、新しい幸せを掴む事よ……今の貴女には酷な事かも知れないけれどね。1日も早く、祐さんを忘れなさい………いつまでも彼の事を追い続けて苦しむ位なら…その方が祐さんも喜んでくれる筈よ。今日のこの涙と一緒に流してしまいなさい………」
瞳は決して、このおばさんの言葉に頷きはしなかった。
しかし、2人は抱き合ったまま長い事離れずに、泣き続けた………
梨樹はおばさんをそっとそのままにして、猛と共に原優を探す。
「先輩、あそこ!」
猛が指差した会場の隅に、原は半ば放心状態で佇んでいた。
彼の傍にいる、戸田一郎、早瀬務両刑事も、同様に焦点の合わない視線を辺りに漂わせるばかりだ。
「原!」
梨樹が声を掛けると、彼は初めて我に返った様子で、『ああ…』とだけ答えた。
梨樹はそんな彼に眉を顰める。
「しっかりしろよ、お前………」
「…………………………」
「祐さんの抜けた穴は大きいだろう?お前がしっかりしなきゃ駄目じゃないか!」
梨樹はそう言って原を力付けたのだが、彼は梨樹が訊いてもいない事を口走った。
「風見の後任、もう決まったよ………」
「あ?」
梨樹は一瞬、唖然とした表情を見せたが、すぐに相槌を打つ。
「どんな奴だって?」
「風見の代わりなんて、出来る奴はいないよ……」
どうも原の言う事は、梨樹の質問と噛み合わない。
梨樹は深い溜息を衝くと、原の肩を軽く叩いて踵を返した。
「かなりの後遺症みたいですね………」
猛が梨樹に囁いた。
「仕方あるまい……俺だって、本当は重症なんだから………あいつは、特に長い事祐さんと仕事をして来たし………ショックが大きいのも当然だろう……」
梨樹はもう1度、祐介の遺影を遠くから見詰めた。
(祐さん……どうか安らかに眠ってくれ………)
心の中でそう呟くと、彼は振り切るように、白菊で囲まれた祐介の笑顔の遺影から眼を逸らせた。

 

− 第5部 (2) へ 続く −