DETECTIVE STORY

 

 

第5部 『 砂の迷路 』 (2)

 

 

その帰り、おばさんの勧めで、梨樹と猛は再び彼女の店に寄った。
3人だけの店内は静かで、おばさんが何かを炒める音だけが響いていた。
まだ食事をしていない2人の為に、特別に拵えている。
梨樹と猛はビールを軽く飲んでいる。
2人の間に空席が1つ。主の無いその席にもコップに注いだビールが置かれている。
祐介に捧げた物だ。
「明日の仕事に差し支えない程度になさいよ」
おばさんは2人の料理を出し終わると、コップ酒を一気に煽って、彼らを見た。
そして……大きく息を吸い込んでから話し始めた。
「2人とも、食べながらでいいわ。そして聞きたくなかったら聞かなくてもいい……」
俯いていた梨樹が顔を上げた。
「………………生老病死と言う人生のドラマを誰もが演じているの。たった7〜80年のドラマ……運命とは神が与えて下さった私達1人1人の使命………そして人はいつか死んで行く。早い人遅い人、それぞれだけど……それも1つのドラマ。運命なのよ………祐さんは短いけれど、とっても素晴らしい人生ドラマを見せてくれたわ。梨樹も、猛君も、生きて!運命(さだめ)と闘って生きて!!『人生は砂の迷路の如し』………私はそう思っているのよ。あなた達は刑事である以前に、人間なのよ。時間と言う砂に流されて……砂時計の中で暮らしている小さな人間………短くてちっぽけな生命。無駄にしては行けないわ。危険な仕事だけれど、いつでも生き長らえる事を考えて生きて。それが人間の本来の姿……でも、その為に浅ましい事はして欲しくないけれど……あなた達なら大丈夫ね。生命は尊い物。どんな苦境に立たされても、諦めて自分で死を選んだりしないでね。人間、その人その人の寿命があるにしろ、老衰で息を引き取るのが一番美しいと、私は思うの………私の意見を押し付けるつもりは無いわ。でも、私の言いたい事はただ1つ。解ってくれるわね。生命を大切に……してね」
「おばさん………解ったよ、おばさんの気持ち」
梨樹が彼女の瞳をしっかりと見据えて答えた。
「何だか、しみったれちまったね。ごめん」
おばさんは明るく答えた。
「でも、運命って残酷過ぎるぜ。祐さんだって、死にたくなかっただろうに………」
「本当に死にたくって死ぬ人間なんていやしないさ………運命には逆らえないよ。神様はきっと、祐さんの事が可愛くて、手元に置きたかったのよ。でもね、希望を捨てたらお終いよ。もしかしたら、人間の力で運命が良くも 悪くも変わる事だって、これからあるのかも知れない………」
「そうだね………」
梨樹は優しく答えた。
「さあ、早く食べて帰りなさいな。たまには夜更かしせずに早寝するのも悪くないわよ」
時計はそれでも、もう10時を回っていた。

 

 

梨樹は、ベッドに潜り込んでも、なかなか眠る事が出来なかった。
棺の中で眠っていた祐介の、まるで生きているような、綺麗な死に顔。
死と言うものを、まるで幻想のように錯覚しそうな程、彼の顔は安らかで、何もかもを通り越してただ透き通るように美しかった。
梨樹は暗闇をじっと見詰めた。
(おばさんはきっと………亡くなった旦那さんの事を思い浮かべていたんだろうな………)
眠れぬ夜は長い。
梨樹はベッドから降りて、小さな灯りを点した。
そして、CDコンポが載せられているキャビネットから、1枚のCDを取り出した。
(祐さんから貰ったベートーベンの『運命』………何か不思議な気分だよ……)
祐介は、早くに異国の地で逝った母親がピアノの先生だった事もあり、父親にピアノを習わされていた。
そのせいかクラシックにアレルギーを持つ事も無く育ち、好んでコンサートにも行っていたようだ。
彼の腕は大した物で、クラブで張り込みをする時にそれが役立った事もある。ピアニストとして、店に入り込んだのだ。
タキシードを着てショパンを弾く祐介………それが絵になったのは言うまでも無い。
祐介人気で女性客が増え、張り込みが終わって撤収する時に、店のオーナーに警察を辞めて正式にウチの店に来てくれないか、と頼まれたと言う逸話が残っている。
これはその彼が梨樹にくれたCDの1枚だった。
ジャケットを眺めてから、梨樹はゆっくりと眼を閉じた。
祐介のいろいろな表情が脳裡に浮かんでは消え………
彼はCDをコンポにセットして、ヘッドホンを通してあの有名なメロディーを聴いた。
「人の生命は小さいもの……常に移り変わって留まる事の無い、広い宇宙の小さな『現象』でしか有り得ない、 か………」
暫くすると、彼は大きな溜息を衝いてヘッドホンを投げ捨て、ふとそう呟いた。
CDはまだ回転している。
異様な夜中の静けさの中で、ヘッドホンから洩れるごく小さな音楽が、梨樹の耳を責めた。
祐介の死………大きな喪失感。梨樹は打ちひしがれていた。
原を叱咤激励した時の気持ちは嘘では無かったが、やはり彼が平静でいられる訳は無かった。
ふと、夜光の目覚まし時計を見ると、もう午前3時を回っていた。
起床時間まで3時間を割っている。
(参ったな……哲学している場合じゃないみたいだ………)
彼はいつの間にか止まっていたCDをケースに仕舞って、再びベッドに潜り込んだ。
しかし、結局はウトウトと、まどろんだに過ぎない。
梨樹は目覚まし時計が鳴り出すよりもかなり早い時間に起き出して、心の中の何かを洗い流すかのように、珍しく朝からシャワーを浴び始めた。

 

 

彼が職場である新宿の伏見署・捜査課に出勤すると、猛はおばさんの言い付けを良く守ったらしく、健康そうな顔をしていた。
「梨樹……一睡もしてないな?」
草野広刑事が梨樹を気遣う。
風見祐介の死によるダメージが大きい事を見抜いていた。
「ちょっと『哲学』してしまいまして………」
梨樹は弔事用の黒いスーツをロッカーに入れながら、答えをはぐらかした。
「ところで、草野さん……」
梨樹は腕まくりして、巧みに話題を変えた。
「………課長が係長と話をしていたのを小耳に挟んだんですけどね……草野さん、国家公務員上級試験を受けたらどうかって」
草野は無関心な様子で、猛がラックに挟んだばかりの朝刊を手にする。
「2階級特進ですよ。凄いじゃないですか!」
梨樹は声を潜めて草野に言った。
「人の心配は無用だよ」
「だけど、草野さんが優秀だから課長だって……」
「………………………………」
草野は梨樹の眼の前にバッと新聞を広げて、熱心に読み始めた。
「勿体無いですよ……………ああ、成程!警部補になれば、西条デカ長より1つ上か。すると転勤は必然的……草野さん、ここにいたいんですね?」
「悪いかな?」
草野は相変わらず、新聞から眼を離さないままで答えた。
彼は、こうして話しながらでも、必ず毎日新聞に眼を通す。そして、それをしっかり頭に叩き込んでしまう。
彼が『生き字引』と呼ばれている所以である。
三面記事の欄だけではない。政治経済にも滅法強いのだから、草野と初めて話す者は大概驚いた顔をする。
「いいえ……俺、感動したんです」
梨樹は決して冷やかしではなく、心の底から呟いた。
事務員の有川真美がお茶を配り始めた。
刑事の1日の中で、唯一ゆったりとした時間である。それも、毎日そんな時間がある訳ではない。
有川真美は、高校を出てすぐにここの事務を取るようになり、既に3年目に入った処だ。
彼女が来るまでは、ここに事務員はおらず、刑事達は忙しい合間を縫っては、パトカーの使用伝票や、経費関係の請求書などに取り組まなければならなかった。
それに、お茶汲みは梨樹の仕事だった。
本来ならば、新米の猛がするべき事なのだが、梨樹がしていたのには訳がある。
猛が来た事で、梨樹はこれでお茶汲みから開放される、と喜んだ物だ。
ところが………猛の入れたお茶には苦情が多かった。
「おい、松田。中村に美味いお茶の淹れ方を伝授してやれ」
草野と同期の黒部満は言ったものだ。
梨樹は仕方なく、急須と湯呑み茶碗は先に温めておく事など、事細かに教え、1人1人の刑事の味の好みを伝授した。
猛はとうとう音を上げて、
「先輩!お茶は大匙何杯……いえ、何g入れればいいのか表にして下さい。それからお湯は何℃位が適当なの
 かも!ここに貼り出しておきますから」
梨樹は呆れて、暫くは声も出なかったものだ。
「………………お前なぁ〜。お茶を淹れるのに一々計量スプーンで量ったり、お湯に温度計をぶっ込んだりする のか?」
「ええ」
猛はにっこりした。悪気は無い。
「そんなもんはな。身体で覚えろよ。眼と手が加減を覚えるものなんだ」
かくして1週間を過ぎても不味いお茶を飲まされた先輩刑事達は、また梨樹にこの仕事をさせるようになったのだ。
この話は今でも刑事達の間で語り草となっている。

 

 

「おい、そろそろ起こした方がいいぞ」
黒部がソファーで仮眠中の林龍男を横目で見て言った。
林は、草野・黒部の同期コンビより1年先輩に当たり、宿直明けの為、9時の点呼前に仮眠を取っていた。
彼はネクタイが嫌いで、余程の事でもない限りは締めていないし、数も持っていない。
それに、汗っ掻きで、いつもハンカチは手放せない位だ。従って、余り仕立ての良いスーツは仕事には着て来ない。
梨樹が彼の耳元に近付いて、「林さん!」と声を掛けると、半分は眼が醒めていたらしく、彼はすぐに飛び起きた。
時計の針は8時55分。点呼まで後5分である。
9時ジャストに、課長の酒井健(たける)、係長の辻保雄、そして部長刑事の西条和也の3人が厳しい顔で入って来た。
朝の挨拶どころではない雰囲気である。
真美は酒井らにお茶を出しそびれた。
酒井の机を全員が囲む。
刑事達の注目を浴びて、酒井は口を切った。
既に刑事部屋の空気は張り詰めている。
「ウチの交通課巡査が、深藪署管内で刺殺された」
「………………!!」
「何ですって!?」
皆が口々に驚きの声を発する中、梨樹は祐介の告別式への出席を断念した。
(祐さん、許せよ………)
梨樹は心の中で呟く。
祐介は同じ刑事として解ってくれる筈である。

 

− 第5部 (3) へ 続く −