永遠の時間(とき)が流れて

 

EPISODE−1  『休養』

 

人気アーティスト・ALPEEのメンバーは、今日も所属レコード会社の中にあるレコーディングスタジオに篭もっている。
12階建てのPEACEレコードの自社ビル最上階にはスタジオが12ブースも用意されているが、その内、第1スタジオは暇さえあればレコーディング活動をしているALPEEの専用状態になっている。
勿論、彼らにはそれだけの実績があるし、12ものスタジオが完備されていれば、他のアーティストのレコーディングを妨害する事にはならない。
他のアーティストのスタッフもそれは承知していて、スタジオの予約時には初めから「1スタ」を外している。
それにしても、このスタジオの数は半端ではない。
PEACEレコードがそれだけ「強い」アーティストを抱えている証拠に他ならなかった。
ALPEEとしての活動も多忙だが、個人的にプロデューサーとしての活動が多い、ギタリストの高根沢紀彦(たかねざわ・としひこ)が、今は一人でレコーディングブースの中に入り、ギターダビングを行なっている。
他の2人はと言うと、リーダーでベースの坂羅井正流(さからいまさる)はテレビの収録が遅れて、まだここに到着していない。
アコースティック・ギターの名手、作崎鴻助(さくざき・こうのすけ)もラジオの深夜番組の生放送中だ。
彼のDJ振りには定評がある。
2人とも終わり次第、ここに駆け付ける予定になっていた。
彼らのレコーディングにこんな事は年中で、音楽活動だけに専念している高根沢がスタジオに残っている事が多い。
高根沢は前述した通り、その音作りの才能を買われ、多岐に渡るアーティストのプロデュースをしている。
エレキギタリストとしても、海外からも声が掛かる程の腕を持っているし、コンポーザーとしても、全く違うジャンル(例えばクラシックやジャズと言ったような)からも、その才能に大いなる喝采を浴びている。他の2人と違い、表立った個人的活動はしていないが、一番肉体的にきついのは彼であり、いつも感性を研ぎ澄ましていなければならないのも彼である。いつか壊れてしまいそうで、坂羅井も作崎も気が気ではないのだ。高根沢は今度、米国の新鋭監督バース・マクアフィーが作る、日本を舞台にした映画のサウンドトラックの作成も依頼されている。その映画はカンヌ映画祭にも出品されるらしい。
彼にとっては、ジミー・ペイズリーのジャパンツアーのライヴ盤に参加して以来の海外に出るチャンスである。
しかし本人自体は、海外に出て行く事に関する野望は全く無い。
今のALPEEとしての活動に決して満足してしまっている訳ではなく、まだまだ自分達のバンドには、音楽的に上を目指せるだけの余地があり、それを極めて行く事の方が、彼にとっては海外進出よりも魅力的な事だったのである。
彼のやりたい事は全て坂羅井、作崎の理解の許に、ALPEEの中で実現出来ると言う自負もあった。
今日はALPEEのニューシングルの歌録りの予定だったが、坂羅井達の到着が遅れている為、その待ち時間をサウンドトラックのレコーディングに充てている。
監督からの数回に渡るラブコールで実現した音楽監督だ。
尤も、「引き受けてくれなければ映画の製作を諦める」とまで言われれば、やはり断れなかったと思われる。
脚本や絵コンテの資料、監督の膨大なる構想ノートのコピーも高根沢の手にある。
そして実際、撮影現場に何度も足を運んだ。
どうせやるのなら。その為の労は惜しまない。
その、のめり込む性格が自身の身体に悲鳴を上げさせている。
特別な病いがある訳ではない。しかし彼が過労気味なのは、周囲の者は全て知っている事だ。
いつ倒れても不思議ではないかも知れない。
実際に彼は今までに何度か過労で倒れている。
だが、疲労しているのは彼だけではなかった。
ワーカホリックの群れ、ALPEEとそのスタッフ達は、休む事を知らないかのように働き続ける。
スタッフは一部人数を除いて、レコーディングとコンサートツアーを別々のチームが担当しているからまだマシだ。
しかし、「ALPEE」には代わりはいない…
代わりにレコーディングしてくれる人も、代わりにテレビやラジオに出演してくれる人も、代わりにステージに立ってくれる人もない。
好きでやっている仕事の筈だが、甘えの許されないシビアな世界ではある。

 

 

作崎がやって来たのは、深夜3時半近かった。
FM710(エフエム・ナットウ)で3時までの2時間の生放送を終え、飛んで来た。
高根沢は、丁度ギターダビングを終えて、ブースの外で音を聴いていたので、すぐに作崎の到着に気付いた。
いつも歯切れの良い江戸弁を操る作崎だが、今日は少しおかしい。
「わりぃ……タクシーが捕まらなくてよ…」
長年の付き合いだ。
声を聴くまでもなく、高根沢には顔を見ただけで作崎の不調を感じ取った。
「どうした、作崎!…顔色が真っ青だぞっ!」
作崎と高根沢は全く同じ日に生まれている。
時間もほぼ同時刻らしい。
だから、2人のバイオリズムは酷似している。
片方が体調を崩している時、もう一方にも何らかの不調があった。
「な〜に言ってんだ………高根沢だって紙のような顔色してる癖によ」
高根沢は確かに、作崎に言われるまでもなく、疲れていた。
しかし今日は作崎の方により強くその傾向が出たらしい。
医者嫌いだけど、いつも健康的で明るい作崎が病気になるなんて考えてみた事もなかった。
今まではせいぜい風邪で寝込む位だったのだ。
医者嫌いが仇になったのかも知れない。こいつ働き過ぎだ。
高根沢は唇を噛み、自分の事は棚上げにして、彼を自分が今まで座っていたディレクターズチェアーに座らせた。
作崎はされるがままにそこに腰を下ろした。
「坂羅井が着いたら起こしてよ」
と疲れ切った声音で言いながら、作崎は首を垂れた。
高根沢は妙な予感に途方に暮れ、作崎を起こさないようにと、2、3人のレコーディングスタッフを残したまま、そっと部屋の外に出た。
今日は坂羅井と行動を共にしているマネージャーの棚の上を携帯電話で呼び出すと、もう本社ビルの駐車場まで来ている、と言う事だ。
医大出身と言う意外な経歴を持つ坂羅井に頼る事しか、今の高根沢には出来ない。
「作崎!どうしたの?」
坂羅井は文字通りに飛んで来た。
深夜までのテレビ番組収録にも関わらず、坂羅井は元気だ。
作崎に呼びかけるが、返事はなかった。
嫌な予感を覚えた坂羅井は、作崎の頚動脈に触れ、口と胸に耳を当ててみる。
「大変!心肺停止状態だ。棚の上、早く救急車を呼んでっ!」
普段は「〜だよ〜ん!」などと独特な喋り方をする、他の2人よりも4つ年上の坂羅井だが、今はそれ処ではなかった。
あの喋り方は、最初はライヴの時などにふざけていただけだったのが、何時の間にか身に付いてしまった物なのだ。
彼の言葉がそのようになって行ったのは、医大を出て、改めて昭和学院大学に入ってからだった。
それは医者への道に背を向けて、永遠にそこから逃げ出した自分自身を誤魔化す為だったのではないか、と最近雑誌のインタヴューで坂羅井自身が述懐している。
「自分なりに、自分を変えようとしてたんだよね。結果的にはこっちの方が性にあってたけどね」
そう、淡々と語っていた物だ。
高根沢は「心肺停止」と言う言葉に頭を岩で殴られたような強力な衝撃を受けていた。
頭がグラグラしている。今にも床に蹲ってしまいそうだ。
今、作崎は俺と会話をしてここに座り、「眠った」ばかりなのに………
そうだ。たった今だ。
「坂羅井…」
続きの言葉が出て来ない。スタッフが周りに集まって来た。
「高根沢、わたしは心臓マッサージをするから、人工呼吸を頼むよ!今やり方を説明するから」
坂羅井は高根沢にマウス・トゥ・マウスの人工呼吸のタイミングを教え、自らも作崎の胸の中央辺りに両手を重ね、数を数えながらリズミカルに心臓マッサージを開始した。
高根沢は人工呼吸は初めての経験だが、とにかく言われた通りに気道を確保し、息が洩れないように作崎の鼻を摘み、一定のリズムで作崎の口に息を吹き込んで行く。
マネージャーの棚の上は、作崎の容態を気にしながら、警備室に救急隊の案内を依頼したり、事務所の社長に連絡を取ったり、と忙しく対応している。
救急隊が12階まで上がって来るのに、通報から10分掛かった。
それでも、警備員が1階でエレベーターを確保してくれていたのだ。
坂羅井も高根沢も作崎を救う事だけに集中していて、救急隊が駆け付けたのにも気が付かなかった。
長い10分間だった。
2人とも、作崎の身体から離れようとはしなかった。
救急隊員が2人来て、「代わりましょう」と声を掛けるまでは。
大仕事から解放された坂羅井に別の隊員が訊ねた。
「倒れてから蘇生法を始めるまでの時間はどの位でしたか?」
坂羅井が、人工呼吸を終えて苦しげに肩を上下させている高根沢の方を見た。
いくら、歌で鍛えられているとは言え、やはり疲れた身体で慣れない事をするのはきつかったらしい。
「俺が棚の上に電話をしてから、坂羅井が来るまでの間に心臓が停止したとすれば、最悪でも5分以内ではないかと……」
高根沢は放心したかのように答えた。
「受け入れ病院が決まりました。とにかく救命救急センターに搬送します」
作崎は人工呼吸器を付けられ、救急隊員の心臓マッサージを受けながら、担架に乗せられた。
坂羅井と高根沢は一緒に救急車に乗り込み、棚の上はテレビ局から坂羅井を乗せて来た事務所の車で追って来る事になった。

 

 

所属事務所の野槙社長や、八百屋を営んでいる作崎の両親と兄夫婦が駆け付けて来た時点では、作崎がどうなったのか、坂羅井にも全く解らなかった。
皆、深夜の出来事だけに、疲れ切っている。
古く、所々が切れたソファーが並べられただけの粗末な待合室には、沈んだ空気が漂っていた。
高根沢は、真っ白な顔色でソファーに沈み込んで、固く唇を結んでいた。
その唇には全く血の気がない。
尤も、彼の顔色が蒼白なのは、疲労と心労から来る物と容易に想像出来るのだが、この状況の中、それを気にする者は誰ひとりなかった。
作崎の両親は突然の事に少し錯乱気味であり、坂羅井はしっかりしている作崎の兄と「医者が来たら2人で説明を聞こう」と言う相談を済ませていた。
彼は先程までの慌しさが収まりつつある事に気付いていた。
医師が説明に現われたのはそれから数分後の事である。
全員が思わず立ち上がっていた。
「………大丈夫。もう意識もしっかりしていますよ。過労から来る心不全です。休養を取りさえすれば、すっかり元に戻ります。まあ、これからも無理は禁物ですがね」
高根沢はその時、その医師の姿に後光が差して見えた事だけは覚えている。
その後の言葉は耳に入らなかっただろう。
「坂羅井さん、あなたがいなかったら、彼は助からなかったでしょう。実に的確な判断でした。高根沢さん、あなたの人工呼吸がなかったら、脳死に至っていたかも知れませんな」
医師の言葉が終わる前に、高根沢はドサッと音を立てて、その場に崩れ落ちていた。
「こっちも過労かな?」
医師が呟いた。
「こいつも慢性的に深刻な過労なの……病気ではないと思うけど」
坂羅井が深刻な顔をして答えた。
高根沢は医師の指示で駆け付けた看護婦達によって、ストレッチャーに乗せられ、病室に移された。

 

 

家族と逢っている間は遠慮していた坂羅井が作崎と逢えたのは、それから1時間程後の事だった。
これから病室に移ると言う。
「取り敢えず入院だってさ。迷惑を掛けちまって悪かったぜぃ。おいらはもう大丈夫でぃ!……それより参った なぁ。医者嫌い注射嫌いのおいらがこんな物をされちまってさぁ〜」
点滴が刺さっている左腕を少し上げ、作崎はまだ優れない顔色でおどけて見せた。
「駄目駄目、そんな顔でカラ元気出したって、騙されないからね。病室に移ったらすぐに寝ないと怒るよ!」
「お〜、こわっ。じゃ、最後に1つだけ訊かせろよ……高根沢、どうした?」
作崎は掛け布団を顔まで引っ張り上げてウインクして見せてから、姿を見せない高根沢の事を慮って気遣わしげに訊いた。
「病室で待ってるよ〜ん。今夜は2人仲良く寝るんだね。尤ももう朝だけど」
「……倒れた?」
「うん………お前が無事だと解った途端にね。過労もあるけど、酸欠もあったみたいだね。必死になって人工呼 吸してたから」
「参ったなぁ〜あいつまで巻き込んじゃったか」
「何言ってんの?作崎は心肺停止状態だったんだよ。劇的に元気になっちゃって、却って心配だよ〜ん!大変な事なんだよ!解ってるの?」
「………やっばりバイオリズム、かな?」
作崎の呟きに坂羅井が「えっ?」と訊き返した時、看護婦集団がやって来た。
「作崎さ〜ん、病室に移りますよ〜」
の声と共にストレッチャーが動き出した。

 

 

病室に落ち着くと、眠っているのかと思われた高根沢が仕切りのカーテンを開けて、作崎の方に向き直った。
「うるさかったろ?わりぃな、迷惑を掛けちまった。おまけに生命も助けて貰った」
「馬鹿だなぁ。当たり前だろ?……それに礼なら坂羅井に言うんだな。俺はあの時、坂羅井がいなかったら、どうしていいか解らなかったんだから」
高根沢は、作崎よりも大きな点滴パックをぶら下げられている。
「高根沢、お前大丈夫なのかよ?」
作崎は思わず訊いていた。
「その言葉、そのまま熨斗付けてお返しするぜ。これはブドウ糖だよ」
「しかし、情けないよなぁ〜。おいらはもう帰りてぇぜ」
「情けないのは俺の方だよ。人工呼吸を施した方がぶっ倒れてどうするんだ、全く」
坂羅井は高根沢の言葉に笑いを堪えつつ、わざと怒った顔をして見せ、
「と・に・か・く!2人ともさっさと寝るっ!昼飯までゆっくり寝なさい!!もうすぐ朝ご飯だけど断っといたから ね!」
「今日の坂羅井は怖いぜぃ。さっさと寝ます、ハイ」
作崎は本当に眠る事にした。
実際、眠くて眠くて堪らなかった。
坂羅井は一旦自宅に帰って仮眠を取る事にし、野槙、棚の上と共に帰途に着いた。
高根沢の家族への連絡は事務所の人間が取ってくれる手筈になっていた。

 

 

高根沢は、作崎の容態が急変しないかどうかが気になって、殆ど眠れなかったようだ。
看護婦が後で坂羅井に語った処によると、見回りに行く度に彼は起きていたと言う。
「高根沢、寝なかったな?減点30点っ!」
昼下がりに病室に入って来た坂羅井の第一声はこれだった。
作崎は検査の為、いなかった。
「……でも、作崎を思う気持ちは良く解るから、それに免じてプラス20点かな?」
「結局、マイナスじゃないか…」
高根沢は薄く笑った。顔色はまだ優れない。
「どう?調子は。まだでっかい点滴をしてるけど」
「大袈裟なんだよ、ここの人達は。俺なんかよりも作崎の方だろ?今、検査に行っているよ。何ともなければ良いけれどな。突然死し掛けたんだ……この際だから、いろいろと全部調べて貰った方があいつにはいいだろう?どうせ退院してしまえばまた医者嫌いの虫が騒ぎ出して、なかなか医者には診せないだろうからな」
「まあ、2人ともいい休養になったね。これからはもう少しすけじゅーるに余裕を持たせて行こうよ」
「そ…そうだな…」 
※ 坂羅井は英語をひらがなで喋る
「歯切れの悪い答え!…高根沢、無理をし過ぎて過労死しても知らないよ」
「解った。気を付けるよ。休養もなるべく取るように心掛けよう。だから、見捨てないでくれよ」
高根沢は彼にしては珍しく哀願口調で坂羅井を片手拝みして見せた。
こんな事をするのも、元気な処を見せたくての事だろう。
「俺は2〜3日もすれば、退院出来るらしい。こんな所にいるのは退屈だからな。監獄みたいだ。早く出たいよ」
「今、休養を取るって言ったでしょ?それなのにもう言ってる」
坂羅井は呆れ顔で笑った。
その日のスポーツ芸能系夕刊紙には、どこから洩れたのか、作崎の件と2人のレスキュー隊顔負けの活躍がすっぱ抜かれていた。
そして、高根沢までがダウンしてしまった事も。
2人は、病院に騒ぎが及ぶ事を恐れて、密かに退院しなければならなかった。
「わたしが出入りしたのを見られたのかなぁ〜」
坂羅井が気にしつつも、とにかくはどこか落ち着ける場所に移動する事になった。
取り敢えず箱根にあるレコード会社の保養所に空き部屋があると言うので、そこで数日療養する事に決めて、看護婦同行の上、夜半ワゴン車で出発した。
作崎の検査の結果は「要注意だが、充分に療養し、定期的に検査を受けていれば特に心配はない」と出た。
高根沢はレコーディングのスケジュールを気にしたが、また坂羅井に叱られて、大人しくこの休養を楽しむ事にした。
思い掛けない休暇だ。
何をしようか、悩んでしまいそうだ。
坂羅井もマスコミに追い掛けられそうなので、同行した。
丁度ツアーの合間で、レコーディングのスケジュールしか入っていなかったのは幸いだった。
「れこーでぃんぐは確かに遅れるけど、それでもいいじゃない。わたしたちの中には、永遠に変わらない時間が流れているんだから。少しぐらい寄り道したっていいんだよ〜ん!……映画監督のばーす・まくあふぃ〜だって、待ってくれると言ってるんでしょ?」
「………………何もしない休暇、って言うのも悪くないかも知れないな」
高根沢がポツンと呟いた時、道が開けて、瀟洒な外観の保養所が見えて来た。

 

EPISODE−1  −終わり−