2つの生きた証し

 

募る愛しさ、

 失う切なさ、

  身を引き裂かれそうな、この想い……
 
   どこにぶつければいい?
  
    もう、心に鍵を下ろせない。

 どんなに優しく口付けても、もうその唇は答えない。

  どんなに心を込めて愛の言葉を囁いても、

   あなたの耳にはもう届かない。

 どんなに強く抱きしめても………………。



    *   *   *   *   *   *   *


やっと一緒に暮らし始めて、まだ3ヶ月しか過ぎていなかった。
いつもと同じように、笑顔で出勤して行った啓輔。
夕方ホテルで落ち合って、結婚式の打ち合わせをする予定になっていた。
年下の彼とはもう5年も付き合っていた。
お互いに結婚を意識するようになるのに、時間は要らなかったが、当時、啓輔はまだハタチ。
大学の2回生だった。
私は既にОL3年目の25歳で、それぞれの両親が結婚を強く反対した。
それでも、たまらなく愛し合っていた私達は動じなかった。
啓輔は立派な社会人になる、そして気持ち良く許して貰えるように頑張る。
そう、私に約束してくれた。


私は紗山美帆。 彼、黒澤啓輔と出逢ってから5年が過ぎようとしている。
その間に一番頑として結婚を反対していた彼の父親が病気で亡くなり、ついに彼の母親と私の両親の祝福を得る事が出来た。
何より、啓輔の頑張りが物を言ったし、私は既に30歳を迎えていた。
5つも年下なのに、啓輔は私よりもずっと大人だった。
懐が大きくて、何もかもを優しく包み込む大らかさが彼にはあった。
それに漸く私の両親も気付いてくれたのだ。
彼と触れ合う事が心地良かった。
啓輔の腕の中でなら、いつでも熟睡する事が出来た。
その優しい唇で口付けをされると、私はそれだけで心がとろけそうになった。
彼の温もり……。
耳に心地良い優しい声。
愛し合う、とはこう言うものなのだ、と改めて啓輔に教えられた気がする。
……とても、大切にしてくれた。
壊れ物を扱うように、でも、時には叱ってくれたりもした。
彼の言う事は25歳の若者の言葉とは思えなかった。
私は啓輔によって、人を愛すると言う事を知った。


啓輔が営業成績No.1になる程仕事を頑張ったのは、私の為だと、痛いほど知っている。
人間、大切な人の為になら、苦手を克服したり、踏ん張れたりするらしい。
本当は両親の反対を押し切って、結婚する事だって出来た。
でも、それでは私が辛かろう、と、彼はまず私の両親に認められようと、頑張ってくれたのだ。
残業やら、接待やらで、どれだけ啓輔が大変な思いをしているか、そう思うと私は辛かった。
彼がそう言う素振りを私に見せなかっただけに余計に……。
そんな日々が続けば、どうしても身体に変調を来す。
彼が過労から高熱を出して倒れ、病院に運ばれた時に、私は言った。
「啓輔、結婚しよう。両親なんてどうでもいいじゃない」


幸いにして、啓輔の若い身体はすぐに快復し、1週間休んだだけでまたバリバリと働き始めた。
「明日、美帆のお父さんとお母さんに挨拶しに行くから。もう僕の母は説き伏せた。安心していいよ」
突然彼が言ったのは、仕事に復帰してすぐの土曜日の夜だった。
その日も休日出勤していた彼、デートの待ち合わせ場所だった横浜のとある海辺のレストランに駆け込んで来た時の必死な顔を私は忘れない。
そして食事の後、夏の終わりの海を見ながら改めてのプロポーズ。
彼は私の左手にダイヤモンドの指環をゆっくりとそっと、はめてくれたのだ。
「明日から一緒に暮らそう。ちゃんと結婚式も挙げよう……」
優しいキスが降って来た。
息苦しくなる位の長い口付け。
強く強く抱き締められて、このまま息が止まっても構わない、そんな風に感じた。
愛してる……。
この世のどんな誰よりも。

 

その夜、2人は初めて避妊をせずに愛し合った。
そんな事をこれまで頑なに守り続けて来た処にも、きっちりとした彼の性格が出ていた。
啓輔の繊細で綺麗な指が、心を込めて私の身体を優しくなぞって行く。
彼の体温が私の心を温かくしてくれた。
お互いを求めて抱き合う事は、とても高尚なものなのだと思った。
啓輔の鼓動のリズムが早まって行くのが、なぜか心地良かった。
私の鼓動も同じように早まっていた。
2人とも、このまま幸せな時がずっと続くと信じていた。
多分、今私の中に確かに宿っている生命は、この時に誕生したのだろう。


翌日、啓輔は見事に私の両親を説き伏せ、即日彼が既に決めていたマンションで一緒に暮らし始めた。
彼の行動力に驚きながらも、頼もしく思えた。
幸せだった……。
啓輔が私にくれる至福の時は、婚約指環のダイヤモンドよりもずっとずっと輝いていた。


それなのに……。
結婚式の打ち合わせをする筈だったあの夜。


ああ、なぜっ!?
ホテルの前でタクシーから降りた啓輔。
そのタクシーに猛スピードで追突して来た暴走車が、そのまま彼を巻き込むだなんて……。
ロビーで彼を待っていた私は衝撃音を聞いて胸騒ぎを覚えた。
まさか、その胸騒ぎが……悲劇の幕開けだったなんて……。


私は一瞬にして、何もかもを失った。
駆け付けた時、啓輔は啓輔では無くなっていた。
顔も確認出来なかった。
即死状態。
ああ、今夜、私の中に宿った小さな生命の事を報告しようと思っていたのに。
それを聞く耳をもう、啓輔は持たない。
何て残酷な。
こんな事、信じられない。
信じたくない。
もう身を引き裂かれそうだ。
私は気が狂わんばかりになり、意識を失くしてその場に崩れ落ちた。
身重の身体だった為、そのまま入院。
一時期は赤ちゃんの生命も危ぶまれる程だった。
本来なら喪主を努めるべき私は、啓輔の葬儀には出席出来なかった。


だから、だろうか?
現実に事故現場を見、遺体も見ているにも関わらず、私は啓輔の死をなかなか受け入れる事が出来なかった。
無かった事にしてしまおうと、心に蓋をした。
でも……。退院してマンションに戻ってみれば、啓輔はもう居ない。
それは紛れもない事実として、私を呵めた。
後を追いたい。
でも、私の中には啓輔の分身が……。
実行に移せないまま、四十九日を迎えた。


  そう、僕の生きた証しなんだよ。
  それが美帆であり、この子なんだ。


四十九日の法要に出席し、改めて啓輔の遺影を見詰める。
毎晩のように寂しさの余りお酒を飲み、泣き崩れて過ごす私に、写真の中の啓輔が優しい声でそう囁いた。


  だから、もっと身体を大事にして。
  こんな形で美帆と離れ離れになるなんて。
  僕だって信じられないよ。
  美帆を残して逝ってしまった事を許して欲しい。
  そして、勝手なお願いだけど、生きてその子を育てて欲しいんだ。
  大切な僕の生きた証しだから。
  愛する美帆……美帆に触れる事がもう出来ないなんて……。
  こんなに辛い事は無いよ。
  美帆ともっといろいろな時間を共有したかった。
  生まれて来る子供の成長を一緒に見守りたかった……。
  僕の分まで、生きて。


啓輔……。
私は欲張りだから、もっともっとあなたに愛されていたかったのよ。


  僕だって同じだよ。
  でもね、美帆。
  これからは自分の幸せを考えて。
  子供の事を頼んでおいてこんな事を言うのは勝手かもしれないけれど、
  好きな人が出来たら、僕に遠慮は要らないよ。


そんな事がある訳ない。
啓輔を忘れられる訳が無いんだから。


私はまた涙した。
いつまでも遺影を見詰めている私を見て、周囲が心配した。
少し横になったらどうか、と勧めて来たが、私は啓輔との会話を邪魔されたくなかった。


「2人だけにして下さい」


啓輔の葬儀・告別式に出られなかった私には、この場が彼の死をしっかりと認識しなければならない試練の場所なのだ。
衣擦れの音と、静かな足音が別室へと向かって行った後、突然すぐ近くに啓輔の気配を感じた。


  美帆はもう僕から卒業しなくちゃね。
  愛してるから、そうして欲しいんだ。


啓輔に背中から抱き締められているような感じがした。
慌てて振り向いて見たが、啓輔の姿がある訳が無い。


  美帆。もう僕は居ないんだ。
  ちゃんと認識して、前を向いて生きて。
  そうしてくれないと、あの世とやらに行けなくて、苦しいんだよ。
  きっと美帆の事は見守っているから。
  僕の愛した美帆をずっと……。

 

啓輔……。
そう……、辛いのね。
私はハッとした。
啓輔の魂は天に上れずに浮遊霊となっているに違いない。
私は決意した。
啓輔の分身のこの子と共に、強く生きよう。
その思いは言葉にしなくても、啓輔に通じたようで、彼の気配は私の背後からゆっくりと消えて行った。
私の眼にはまだ涙があったが、それはこれまでの喪失感とは違っていた。


啓輔、ありがとう。
私に新しい生命をくれて。
あなたの人生に恥じないように、私は生きる。
今はまだ辛いけど、いつかあなたの子をこの腕に抱いて、笑って過ごせるように……。
きっと、そうなるから。


……沢山の愛を、ありがとう。

 

− 終わり −