guitarist

 

「トシヒコ、ありがとう!とても素晴らしかった!」
今、高根沢紀彦の肩を抱えるようにして、賛辞の声を上げたのは、前日に無事ジャパン・ツアーを終えたばかりの、ジミー・ペイズリーその人である。
高根沢も微笑で答える。
ジミーが高根沢のギタリストとしての腕に惚れて、彼をワールド・ツアーのメンバーにスカウトした事は、周知の事実である。
ALPEE以上でもそれ以下でも無い高根沢は、それを断っていたのだが……。
せめて日本国内のツアーだけでも、と口説き落とされたのであった。
「トシヒコをこの後のツアーにも連れて行きたいけど……残念だよ」
此処は、ジャパン・ツアーFINALの打ち上げパーティーが行なわれている某ホテルの会場だ。
関係者も多数詰め掛けており、今日の主役であるジミーは本来なら四方八方に愛嬌を振り撒かなくてはならないのだろうが、それは日本人の考え方なのかもしれない。
ジミーは周囲をそっちのけで高根沢にご執心だ。
今、彼の関心事は他には無い。
同じステージの上で、高根沢のギタリスト振りを見て聴いて感じている内に、ジミーはもう、他のギタリストでは物足りなくなってしまっていた。
彼もギタリストだから、ギタリストに対する評価は自ずから厳しくなる。
しかしトシヒコのプレイは、もしかすると自分より上を行っているかもしれない……と、彼は思っている。
そして、それをやっかんだりしないで素直に認めていた。
高根沢はミュージシャン達の通訳をも自然に努めていたから、彼らの間でも大人気で、何度一緒に来るようにと勧められたか解らない。
その気持ちが嬉しいだけに、高根沢は慎重に言葉を選んで話し出した。
「とても嬉しいのだけれど、残念ながら日本を離れる訳には行かない……俺にとってはALPEEが全てであり、絶対なんだ。ジミーに憧れてこの世界に入って、とうとう、その憧れの人と共演までさせて貰った……本当に有難いと思っているし、自分は幸運だと思う。時間が許すなら、もっと一緒にやってみたいと思ったのも事実だ。でも、日本には俺達ALPEEを待っていてくれるオーディエンスが沢山いるんだ。俺は個人としての『高根沢紀彦』ではなくて、ALPEEの高根沢以外の何者でもない。メンバーの作崎も、坂羅井も、そして俺達を支え続けて来てくれたスタッフやオーディエンスのみんなを置いてまで行くつもりは無い……。どうかそれを解って欲しいと、心から、そう思う」
高根沢はキッパリとした眼でジミー・ペイズリーを見詰めた。
「勿体無いよ、トシヒコ。その腕は世界で充分に通用するのに」
ジミーはうめくように答えた。
「やっぱり黒い髪の音楽をやって行きたいと思うんだ。でも、音楽は万国共通語だからいつも日本のアーティストが世界に受け入れられる時も来ると信じているよ」
そう言うと高根沢はジミーにその美しい横顔を見せて、離れたテーブルでイベンターと談笑している坂羅井と作崎を振り返った。
「彼らは音楽以外でも本当に良い仲間なんだ。温室にいるみたいに俺の心を暖かくしてくれる。あいつらには俺のワーカホリック振りをいつも心配させてばかりだけど、掛け替えの無い仲間……誰ひとりお互いの代わりになる者はいない」
高根沢の微笑を含んだ視線の気付いた作崎が、花火のように明るい笑顔を返して来た。
その瞳は、『お前、評判いいぞ!』と言っていた。
坂羅井はガッツポーズをして見せた。『やったね♪高根沢♪』と言わんばかりだ。
それを見ていたジミーは感じる処があってか、
「トシヒコ!ALPEEの曲をやってくれないか?後で1曲聴かせてくれる事になっているんだろ?1曲と言わずにもっと聴きたくなった」
ジミーは高根沢にそう言うと、傍にいた英語の解るイベンターに耳打ちをした。
イベンターは頷くと、予め設えてあるステージの方へと歩いて行き、準備を始めた。
高根沢は坂羅井と作崎、そしてマネージャーの棚の上を手招きした。
ジミーへの餞(はなむけ)と言う事で、まだレコーディングもされていない『あの頃の瞳で』と言う曲を用意していたが、その他には心積もりをしていなかった。
尤も小回りの利く彼らの事、いざとなればアコースティックギター1本、またはピアノ1台があれば、いつでもどこでも歌って聴かせる事が出来るのであるが……。
「こう言う事もあるかと思って、PAにMOを渡してあります」
棚の上の言葉に、3人は感心してしまう。
「さすがマネージャーの鏡だな」
高根沢が呟いた時、ジミーの合図で、彼のマネージャーがギターケースを担いで近付いて来た。
「トシヒコに弾いて貰った方がギターが喜ぶ。良かったら貰ってくれないか?」
ジミーが自ら開けて見せたケースの中には、虎目模様のレスポール・スタンダードが眠っていた。
彼がバンド時代に愛用していた逸品である。
バンド最大の大ヒット曲のプロモーションビデオの中でも、これを弾いているシーンがあった。
ボディーにメタリックペンでジミー・ペイズリーのサインが施されていた。
高根沢は感激の面持ちでそれを見詰めた。

 

 

時間切れで『Like a rose,under the snow』、『tears for you』、そして『あの頃の瞳で』の3曲しか演奏出来なかったが、その完成度にジミーは驚き、大いに喜び、高根沢の気持ちを理解してくれた。
「トシヒコ、いつかまた逢えるのを楽しみにしているよ。スケジュールが合ったら、いつでもまたギターを弾いてくれ」
ジミーはそう言って高根沢に握手を求めた。
坂羅井や作崎にもそうした。
パーティーがお開きになった後、高根沢はイベンターの二次会にも付き合わされる事になっていた為、坂羅井達とは会場で別れた。
棚の上だけを伴い、明日のレコーディングに備えて酒量をセーブしつつ、付き合いが終わったのは、午前1時を回っていた。
棚の上とタクシーに同乗して、漸く帰途に着く。
2人は行き先を告げると、ウトウトとまどろんでしまった。
ドッと疲れが出ていた。
彼らが目覚めたのは、後方からの激しい衝撃によってだった。
タクシーは跳ね飛ばされて一回転し、電柱に激突して止まった。
運転手を含むタクシーの3人はシートベルトを締めてはいたものの、頭部を強く打って、意識を失った。
見た処、運転手はフロントガラスに頭を突っ込んで、頭から血を流していたが、乗客の2人には一目で確認出来るような異常は見られなかった。

 

 

坂羅井と作崎は気持ち良く眠っている処を、それぞれ社長の野槙からの電話で起こされた。
寝惚け眼も一瞬の内に見開かれる。
2人は社長の迎えで車に乗り、無言のまま病院に向かった。
足音を抑えるのももどかしく病室の扉を開けると、まず痛々しい鞭打ちのギプス姿の棚の上がベッド脇に立っているのが眼に入った。
「社長、申し訳ありません。私がついていながら」
首が動かないのも忘れて頭を下げようとし、痛みにうめく。
「馬鹿だなー。お前がいたからってどうなるものでも無いんだ。とにかくお前は無事のようだな。で、高根沢はどうなんだ?」
野槙がベッドで眠っている高根沢を覗き込む。
「レントゲンでは異常が出ていないのですが、先程少し眼を覚ました時に様子がおかしかったのです。先生は頭をしこたま打ったショックによる記憶喪失では無いかと……。それも部分的では無く、どうやら全ての記憶が失われている可能性があると。話をしている内に頭を抱えて苦しみ出したので、先生が鎮静剤を打って眠らせました。もう、見ていられなくて……」
棚の上が、利き腕に点滴の針を刺されて、蒼白な顔で眠っている高根沢から身体ごと向きを変えて眼を逸らせた。
高根沢の傍で心配そうにその顔を覗き込んでいた坂羅井が、観察を終えると呟いた。
「外傷が無い方がよっぽど怖いんだよん。却って出血があった方がましだったのに…なんてついてないの、高根沢」
坂羅井が掛け布団の縁を握り締めた。
「そんなのねぇよ!何で高根沢が!おいらは信じねぇ。おい!高根沢、起きろよ!……おい!高根沢っ!!」
作崎が坂羅井の静止にも構わず、高根沢の肩を掴んで乱暴に揺すった。
「作崎、気持ちは良く解るけど、取り敢えず生命に別状は無い筈だから、夜明けを待ってしっかり検査をして貰おう。ね、落ち着いて」
坂羅井が作崎を宥めた時、高根沢が小さく喘いで瞳を開いた。
「高根沢!!」
部屋にいる4人がベッドに駆け寄った。
高根沢はその4人の誰の顔も解らない様子だった。
自分の事を呼ばれている事すら気付いていないのは、誰の眼にも明らかで、眼を細めて蛍光灯の光が眩しくて堪らない、と言うような仕草をした。
それから、光に眼が慣れて来ると、億劫そうに初めて口を開いた。
「だ…れ………?」
全員を激しい衝撃が襲った。
此処にいるのは高根沢ではない。良く似たただの男だった。
微笑すらしなかった………
何も思い出せない自分にもどかしさを感じて苦しんでいる1人の男だった。
高根沢は頭を抱えて、布団の上にうつ伏せた。

 

 

そうして3日が過ぎた。
高根沢は未だに自分が誰であるかすら解らない程、何もかも忘れ去ってしまっていた。
医師の診断は、時が経つのを待つしか無いと言う事だった。
時々、数人の医師がカウンセリングを行なうが、高根沢はいつも疲れ切った表情で病室に戻って来るのみだ。
思い出そうとすればする程、頭の中は混乱し、彼を苦しめる。
非常に頭の良い男だけに、心のまっさらな状態はかなり堪えるようだ。
思い出さなくては行けない……彼はその事実だけに縛られている。
それに苦しめられている。
自分で自分にきついノルマを課している。
そのノルマをこなせない自分がまた辛い。
それにしてもツアー中でないのが不幸中の幸いで、レコーディングの遅れはともかくとして、予定に入っていた音楽番組のTV出演は『高根沢急病』と言う事で、坂羅井と作崎が2人でアコースティックアレンジを施した曲を歌い、何とか遣り過ごした。
しかし、いつまでもこのままでは、ALPEEはどうなってしまうのか?
高根沢でなくとも、誰もが焦りを抱いていた。
病室で眠る高根沢を見舞った坂羅井と作崎も同じだった。
ALPEE以前に友達でもあるだけに、2人の辛さと不安は他の人間よりも一回りも二回りも膨大な物だ。
「高根沢であって、高根沢でない……いつまでこんな高根沢を見てなきゃならねぇんでいっ?!……………なあ、坂羅井。何とかなんねーのか?例えばもう1度頭に衝撃を加えるとか……」
「だめだよ、りすくが大き過ぎる。そんな事をしたら、他の危険が出て来るでしょ?まあ、検査の結果、記憶障害以外の異常は発見されなかったけど……やっぱり頭を打った訳だからね。またそれをやるって言うのは、医者として誰も出来ない筈だよ。無謀過ぎるもん」
「じゃあ、どうしたらいいんでぃっ?このままずっと高根沢が何も思い出す事が出来なかったら……おいら達は高根沢を失う事になるのかい?」
作崎は錯乱した。
「………高根沢をすたじおに連れて行ったらどうかなぁ?いつものでぃれくたーずちぇあに座らせて、ALPEEの曲を流すの」
「そんな事で思い出すかい?」
「根気良くやろうよ♪少しずつ教えてあげよ♪最初は知識としてゆっくりとわたしたちの事を話して上げよう。何か断片的にでも思い出してくれるかもしれない」
「そうかもしれねーけど、『知識』と思い出した『自分の記憶』との境界線が曖昧になりそうでぃっ。大丈夫なんだろうなぁ?」
「でも、このまま高根沢が苦しんでいるの見てられる?」
「………られねー」
作崎がポツリと呟いた時、高根沢が眼を覚ました。
「いつも………」
高根沢は気だるそうにゆっくりと身体を起こすとも2人に向かって口を開いた。
「……2人は此処に来ているね」
なぜ?と言下に匂わせて、眼を窓の外に向ける。
外は1月の雨が雪に変わって、チラチラと白いものが舞い始めている。
「だって、友達だもん、そして大事な人生の仲間だから♪」
「友達……仲間……悪いがどうしても思い出せないんだ」
高根沢は頭を抱えて、目線を自分の手元に引き寄せる。
「あせらないで♪わたしたちがゆっくりと少しずつ思い出させてあげる♪」
「君達が……?」
怪訝な顔の高根沢に、坂羅井は静かに頷いて見せる。
「そうだよ♪これからもわたしたちは、ここに来れる限り来て、おまえの事を教えてあげるから、それを切っ掛けにして少しでも思い出せればいいんだよ♪」
作崎は此処は坂羅井に任せる、とばかりに一歩下がって腕を組んでいる。
高根沢は、坂羅井の眼を見、それから後ろの作崎にゆっくりと視線を移した。
「解った。俺も君達を信じてそれに賭ける。どうか、宜しく」
「ま・か・せ・て♪………それから、その他人行儀な話し方はやめようよ♪まず、おまえの名前は高根沢紀彦。ALPEEと言うろっく・ばんどのめんばーだよ♪えれき・ぎたーの担当で、凄い名手なんだよ!……それに作詞作曲の大先生でもあるの♪」
「名前だけは先生から聞いたけれど………」
「そう?じゃあ、わたしたちの名前を覚えてね♪……わたしは坂羅井。ALPEEのべーす・ぎたー担当だよ〜ん♪一応りーだーもやってるの♪それからこいつが作崎。あこーすてぃっく・ぎたーの名手だよ〜ん♪」
「坂羅井さんと作崎さん……」
「ええぃっ!やめいっ!気持ちわりぃから、呼び捨てにしてくれぃっ!!」
作崎が大きく首を振って叫ぶ。
「………作崎っ!」
坂羅井が眼で作崎を窘めてから、フォローする。
「こいつは江戸っ子で、こう言う言い方しか出来ないの。だから気にしないでね♪でも高根沢はいつもわたしたちの事を坂羅井、作崎、って呼んでたんだよ♪だから、まだ思い出せないだろうけど、そう呼んでくれたら嬉しいな♪」
「そうなんだ……それなら、なるべくそう呼ぶように努力するよ」
努力しなければそう呼べない……その事実は、坂羅井と作崎にとっては、かなり辛い物だった。
「高根沢さん、夕食の時間ですよ」
ノックの音がして、それから五十年配の看護婦がトレーを持って入って来た。
婦長の名札が付いている。
若い看護婦だとミーハーな気持ちで高根沢を扱う可能性があると見て、病院側が婦長を付ける配慮をしたのだろう。
「婦長さん、いつも高根沢がお世話になってます♪」
坂羅井が頭を下げた。
「こいつ、ちゃんと喰ってます?」
作崎が心配げに訊ねた。
「お世辞にも食べているとは言えないわねぇ〜。何度言っても駄目なのよ。残す量の方が多い位ね。身体が悪い訳では無いのだから、ちゃんと食べなくちゃね、高根沢さん。お仲間が心配して毎日来て下さっているんだから」
婦長は話をしている間にも、手馴れた調子で食卓を引っ張って来て、トレーを乗せ、お茶を注いだ。
「まあ、今日はお2人が傍に付いていらっしゃるから、残す訳には行きませんね、高根沢さん?」
「おいら達の事を思い出せば言う事も聞いてくれるんだろうけどねぇ……」
作崎が思わずぼやく。
「大丈夫。こんなに才能のある人が、このまま終わる筈がありませんよ」
婦長は作崎に微笑んで見せると、忙しそうに出て行った。
「そう言えば、俺が事故に遭った時に一緒にいたと言う彼は、大丈夫なのかな?」
それまで黙っていた高根沢が突然呟いた。
「えっ?」
「あの、鞭打ちになっていた人」
「棚の上の事?……彼は、わたしたちのまねーじゃーなんだよ。今は自宅療養してるから大丈夫。心配いらないよ♪」
坂羅井が微笑んだ。
「棚の上の奴、これを聞いたらきっと泣くだろーな……それにしても高根沢らしい処が出て来たぜい」
作崎はそう言いながら、ふと高根沢の顔が疲れている事に気付く。
「高根沢、今日の処はおまえが飯喰うのを見届けたら帰るぜい。疲れているみてぇだからな」
「そうだね♪………明日、先生に外出の許可を貰ってるから、少し外の空気を吸いに行こうね、高根沢♪」
高根沢もこんな2人の優しさだけは感じ取れていた。
「ありがとう、坂羅井。そして作崎……」
そう静かに言うと眼を閉じた。
そして、余程疲れが出ていたのか、そのまま寝付いてしまう。
「あーあ!メシ喰ってねぇのに………」
作崎が嘆くような声で呟いた。

 

 

PEACEレコードの第1スタジオは、事実上ALPEEの専用の状態になっている。
レコード会社の制作部長は、良く冗談とも本気とも付かない口調で、「ALPEEにもウチの皆勤賞を上げたい位だね」などと言っている。
坂羅井が作崎と共に高根沢を連れて来たのは、その通称『アルスタ』と呼ばれているスタジオである。
スタジオへ向かう通路の曲がり角で、3人はレコーディングの打ち合わせを終えてミーティング室から出て来た真山由紀と、そのマネージャー女史と出くわした。
いつもならすぐに『おはよう!』と声を掛ける筈の高根沢は、眼を伏せたまま顔を上げようともせず、真山の挨拶が聞こえないかのように答えない。
「よっ!真山ちゃん!元気そうじゃねーかいっ?!仕事の方は順調かい?」
作崎が景気良く右手を挙げて挨拶する。
「今日はレコーディングなの?」
専ら喋るのは作崎と坂羅井である。
一言も発しない高根沢の様子に、真山も彼の異常に気付いてしまった。
「高根沢さん………?」
「ちょっとこっちに来てくれる?」
坂羅井は、真山とマネージャーを第1スタジオに招き入れ、事情を説明した。
2人とも驚きを隠せない。
このマネージャー女史は、高根沢と面識がある。
いや、面識処か、今仕事上の絡みも持っている。
黒沢真理、36歳。高根沢よりも2つ年上の彼女の敏腕振りは、業界では有名だった。
長身でいつも男みたいなスーツにネクタイ姿で颯爽と歩く才女だ。
その姿は宝塚の男役のように恰好良く、マネージャーにしておくのは勿体ないと言う声も聞く。
その昔演劇を志していたらしいが、自らの限界を悟り、この世界へ入ったのだと言う。
現在、黒沢は新人の男性シンガーソングライター・村雨絋治を発掘して、高根沢にプロデュースを依頼中だ。
プロジェクトが動き出し始めたばかりの今、彼女にとっても高根沢の病状がこのままだと死活問題になる。
「わたしたちはね。ALPEEがどうなるかとか言う事が全てじゃないんだよ〜ん。やっぱりね、高根沢は大切な友達だからね♪高根沢が高根沢でなくなるのが一番怖いの」
「そう、おいらも……高根沢を失いたくないんでぃ。だから、坂羅井と2人で相談して、此処に連れて来たんでい」
高根沢は彼らの話を他所に、座らされたディレクターズ・チェアに浮かぬ顔で沈み込んだままだ。
そんな高根沢をサングラスの奥の優しい瞳で包み込むように見てから、坂羅井は作崎を振り返った。
「作崎、そろそろ始めよう♪」
「おう!………今日おいらに卓をいじらせろよ」
今日はレコーディング・スタッフを呼んでいないので、作崎が自らコンソールを操作して、最近ミックスダウンを終えたばかりの、高根沢作詞・作曲&ヴォーカルの、ミディアムテンポの曲を流し始めた。
『未完の小夜曲(セレナーデ)』と名付けられたその曲がコンソール・ルーム一杯に流される。
坂羅井は黙って高根沢にスタジオに届けられていた、ジミー・ペイズリーからの贈り物のレスポールを抱えさせた。
作崎の手で先程、チューニングがなされていた。
真山と黒沢女史は何を始めるのかと固唾を飲んで見守っている。
「…………………………………!?」
レスポールに触れた途端に、高根沢が全身をピクリと震わせて反応を示した。
「弾いてごらん?」
坂羅井が静かに言った。
「無理だよ、こんなの………弾いた事なんて無いんだから」
曲は何時の間にか終わり、コンソール・ルームは再び静かになった。
坂羅井は黙って譜面台を高根沢の前に引き寄せる。
譜面に書かれている曲は彼らの曲の中でも特にスタンダードになっているナンバー『
Sexy Dynamite』である。
ギターパートの譜面を前に、高根沢は戸惑った表情で凍り付いている。
坂羅井は作崎に目配せをして、アコースティック・ギターを持たせ、自らもベースを手に取った。
エレキギター抜きの生イントロが始まる。
高根沢はギターを手にしたままじっと動かない。
眼を閉じたまま何を考えているのか窺う事の出来ない、呆然とした表情でいる。
彼だけが………全て停まっている。
真山と黒沢女史は、為す術も無く、ただ黙って見守る以外に手は無かった。
このまま帰る気は2人とも無い。
高根沢抜きのコーラスで曲は進む。
まるで曲として成り立っていない。
……………高根沢は静かに聴いている。
エレキギターのリードが入る間奏で、高根沢はいきなりカッと眼を見開いた。
まるで最初から一緒に曲を演奏していたかのように、スッと自然にギターを弾き始める。
譜面は見ていない。
全く腕は衰えていないし、いつもの高根沢に見えた。
坂羅井と作崎の表情が明るくなる。
リードを弾き終えると、なぜか6弦が切れた。
その瞬間、張り詰めた糸が切れたかのように高根沢は疲れた表情になり、ギターを抱いたまま、ぐったりと椅子の背凭れに凭れ掛かって行く。
「やっぱり、ぎたりすとだね♪ぎたりすとの本能が高根沢にぎたーを弾かせたんだね♪」
「さすがだな!でも、全てを思い出したと言う訳ではなさそうでぃ……」
坂羅井達の言葉を他所に、高根沢は自分自身で驚いていた。
出来る訳が無いと思っていたのに、今の自分は確かにプロの腕前でギターを弾いていた。
記憶の糸口を掴んだような気がしていた。

 

 

真山と黒沢女史はもう感激し切っている。
ギタリストの本能を眼の前で見せ付けられたからだ。
高根沢の凄さを改めて思い知らされた気がした。
坂羅井も作崎も喜びを隠せなかったが、まだ此処にいるのは高根沢であって高根沢ではない。
自然、感激も半分になる。
高根沢の記憶が戻らない限りは、彼らの気持ちも晴れはしないのである。
「俺が本当にギタリストであるのは間違いなさそうだ……多分本能が俺にギターを弾かせた。でも、これだけでは……自分を取り戻した事にはならない……なぜだ?何かがやはり欠落している。俺は本当に『高根沢紀彦』なのか?……ALPEEと言うバンドがどんな物なのかは、何となく解って来た………でも、決して自分の関わっている物だと思えない……なぜ?……さっきの俺は譜面も見ずにギターを……………」
高根沢は疲れた頭で考えを巡らせた。
彼の顔色が蒼白く変わっているのに気が付いた坂羅井が優しく肩を叩いた。
「高根沢、今日はもう病院に帰ろう♪思った以上の成果は出たよ♪あんまり無理しない方がいいよ。………焦らなくてもいいから、ゆっくり思い出そうね」
「そうでい、そーでいっ!今日はもういい。疲れるから、もうそんなに考え込まなくてもいいんだぜぃ!」
作崎が高根沢がずっと抱え込んだままだったレスポールをそっと取り上げた時、高根沢は突然頭を抱えてうめくと、前のめりに椅子から転げ落ちた。
「た、高根沢っ!」
「高根沢、どうしたの!?」
坂羅井が素早く行動を起こし、高根沢をそっと抱き起こして、胸に抱き抱えた。
「下手には動かせない!……黒沢さん、救急車を呼んでくれる?」
坂羅井は蒼白い顔で指示を出した。
黒沢女史はすぐに携帯電話をバッグから取り出し、行動に掛かる。
坂羅井の頭には『急性硬膜外血腫』と言う言葉が浮かんでいる。
いや、それなら心配は無いのだ。
もしも……『急性硬膜内血腫』だったら……。
これは怖い。
『硬膜内血腫』……文字通り脳の内側に出来る血腫(けっしゅ)である。
これが起きると、もう手遅れだ。
生命の終わりが待っている事になる………
自分のした事が原因だと言う事も、確率は低いが考えられた。
外出させたのは早計だったのだろうか………?
坂羅井は唇を噛み締めた。
自分の危惧している事を誰にも言わずに胸に秘め、彼は救急車に同乗して行った。
「私の車に乗って下さい。今、ロビーに車を回します!」
黒沢女史が身を翻してローヒールの靴を慣らしながら、エレベーターホールの方へと走り去った。
駐車場は地下2階にある。
作崎はふと、隣で気を揉んでいる真山の方を見た。
両掌を合わせ、まるで祈るような彼女の姿に、作崎は初めて『真山ちゃん』の高根沢に対する気持ちを知った。
それは決して『先生』に対する思いでは無い………。
(そっか……でも、高根沢にはルリが……紆余曲折あったけど、一緒になりそうだもんなぁ〜。とにかくこうなっちまった以上、ルリにも連絡はしておかねーとマズイかな?)
真山は確かに高根沢を慕っていた。 
※この次点で高根沢はまだ瑠璃子と結婚していない
しかし、彼女は片思いである事を知っている。
無理に諦めている辛い恋だ。
作崎は密かに真山の為に胸を傷めた。
「作崎さん!車が来ました」
真山の声で作崎は意識を元に引き戻された。

 

 

病院の前で、作崎達は能登でのロケを終えて、取るも取り敢えず駆け付けた高根沢絵理と出逢った。
脱いだコートを腕に掛け、大きなバッグを持ってタクシーから降りて来た絵理は旅支度のままだった。
相変わらずその美しさは衰えていない。
「兄がご心配を掛けてすみません」
心配そうな表情を消して、兄に似た微笑を浮かべ、作崎達に挨拶する。
彼女には事が起こってすぐに連絡をしてあったのだが、映画のロケを抜ける訳には行かず、心配しながらも今日まで顔を出す事が出来なかったのである。
作崎は足早に病院のロビーに駆け込みながら、
「説明は真山ちゃんから聞いてくれいっ!とにかく急いで付いて来て!」
そのまま受付に走り去る作崎を見て、尋常でない事を悟った絵理は、真山からその事情を訊き出した。
「お兄ちゃん……!」
普段、他人の前では使わない呼び方で絵理は逼迫した声を出した。
作崎が戻って来た。
「処置室にいるらしい。こっちでいっ!」
作崎は絵理の荷物を奪い取るように受け取ると、再び先頭を切って走り出した。
「………だめだよ♪病院の中を走っちゃ」
処置室の前には誰もいなかった。
だが、息を切らした作崎の前に坂羅井が出て来て、彼を窘めた。
坂羅井の表情にはホッとした様子がありありと見えた。
「高根沢は?!」
「だいじょ〜ぶ♪『急性硬膜外血腫』………頭を打った事で血の塊が出来ちゃったの。脳味噌の中だったら生命に関わったんだけど、硬膜の外だったから……今、CTを見せて貰ったの。安心したよ♪記憶障害もそのせいだったんたよ。血腫が出来て脳神経を圧迫してたの、頭を打つと後からこうして何か出て来るから怖いんだけど……本当に良かった。注射器で血腫を吸い出せるって。頭を切る事も無く、改善するよ。だいじょうぶ♪記憶も戻るし、1週間もすれば退院出来るよ〜ん♪」
「よ……良かった………」
絵理は力が抜けたように近くにあったソファーに座り込んだ。
「おいら、高根沢の兄ちゃんと、社長に連絡して来るぜいっ!」
作崎が弾む声で言って、踵を返した。
「私もPEACEレコードの人達が心配しているでしょうから、知らせて来ます」
黒沢女史が作崎に続いた。
「あ、わたしたちからもよろしく言ってたって伝えておいてね♪」
黒沢は坂羅井の言葉に振り返って頷いて見せると、足早に去った。
ロビーの公衆電話で電話を掛けている作崎の横を黒沢が通った。
彼女はニヤリと作崎に笑って見せると、廊下の黒いソファーに座って、切ってあった携帯電話の電源を入れた。
作崎も笑い返した。
やっと高根沢が還って来る。
それぞれも思いを胸に、心からその喜びに浸っているのであった。

 

− 終わり −