白昼夢は晴れた午後

※この作品はキリ番を5つ貯めて下さったKUMIKO様に捧げます

 

 

坂羅井正流(さからい・まさる)は、超有名ミュージシャンである。
ヒット曲を連発しているバンドのリーダーだが、実に気さくな性格をしており、他のメンバーに比べ、自らどんどん外に出て行くタイプである。
休日はと言えば、平気で地下鉄に乗って出掛けてしまう。……彼にはそんな処がある。
尤も彼の場合、トレードマークの帽子とサングラスを外し、髪を洗いざらしのままで歩けば、知らない者には誰だか解らないのである。
他のメンバーの場合は、多少変装しようが一目で見破られてしまうので、出歩く時は車を使う事になってしまう。
坂羅井は仕事中の彼の姿が変装のような物なので、サングラスを外してしまうと、新参のスタッフには正体が解らない事もある。
実際、それでコンサート会場にスタッフ通用口から入ろうとして警備員に止められたと言う逸話が残っている。

 

 

その日も彼は、ぶらりと地下鉄に乗って旧知の友を突然訪ね、驚かしてやろうと計画していた。
事はそんな日の乗り換え駅で起こった。
電車の発車間際、慌てて階段を駆け降りた男が、若い女性を突き飛ばして電車に飛び乗ってしまったのだ。
階段を5〜6段転げ落ちたその女性は痛みに思わず顔を顰めた。
「大丈夫?ひどい男だね。ちょっと見せてご覧」
医療の心得がある坂羅井は、すぐさま駆け寄って、彼女の右足首を見た。
「ちょっと痛いかもしれないけど、我慢して!骨折していたら大変だからね」
女性の足首は赤く腫れている。
坂羅井は慎重に触れてみる。
「大丈夫♪骨折はしていないよ。ヒビも入ってない。でも、捻挫はしているから、早くお医者さんに診せた方がいいよ」
女性は顰めた顔を崩さないまま、頷いた。
礼を言いたくても言う事が出来ないような様子だった。
「心配しないで♪この近くにわたしの知り合いの医者が居るよ♪負ぶって連れてって上げる」
坂羅井は親切心からそう言ったのだが、良く考えてみれば、これでは相手の女性は警戒するに違いない、そう気付いた。
「ごめんね、わたしは別に怪しい者じゃないから♪医者になり損ねた男だけどね」
仕事から離れた時、坂羅井は出来るだけ口癖を出さないように気を付けている。
姿形が仕事の時と違う以上、一般人として生きたいのなら、その口癖は出さないに越した事は無い。
それを聞いたら、誰でも彼の正体を見破ってしまうからだ。
「私は坂井勝と言います。今日は仕事が休みなので名刺は持ってないんだけど……。とにかくそのままじゃ歩けないでしょ?心配しないで」
坂羅井は偽名を使った。
自分の本名を名乗る事は得策ではない。
「ALPEEの坂羅井さんのお名前にそっくりですね」
初めて、女性は痛みを堪えながらも微笑んでくれた。
その微笑みが余りにも美しくて、坂羅井は一瞬で胸を貫かれた。
「私、坂羅井さんの大ファンで、ライヴもいつも見に行っているんです。あなた、お名前だけで無くて、何となく雰囲気が坂羅井さんに似ているような気がします。ごめんなさい。これは余計な事ですね。申し遅れました、わたしは三宅久美子です」
女性は自分も名乗ってから、何とか立ち上がろうと試みた。
だが、また痛みに顔を顰めて、座り込んでしまう。
「『永久に美しい』で久美子さん、なんだね。さあ、私に掴まって。とにかく早く行かなくちゃ」
坂羅井はもう予定を変更して、この女性に付き合う事に決めている。
久美子も何となく安心感を覚えて、彼に甘える事に決めた。
坂羅井は、ハンカチを濡らして来て、彼女の足首に巻いた。
この場合、とにかく患部を冷やす事だ。
(わたしはもしやこの女(ひと)に一目惚れしたんだろうか……?ついつい、高根沢みたいな事を言ってしまったよ〜ん!)
坂羅井はせっせと介抱をしながら、ひとり心の中で呟いた。
心の動揺は介抱に専念する事で隠した。
確かに久美子は美しい。
殆ど化粧を施していないその顔(かんばせ)には優しげな柔らかな性格が表れている。
その彼女の左手薬指にリングが光っている事に坂羅井が気付くまでには、もう少し時間が掛かった。

 

 

「大丈夫?しっかり固定して貰ったし、痛み止めの注射が効いて来れば痛みは取れると思うよ」
1時間半後、病院から松葉杖を付いて出て来た久美子と坂羅井の姿が見出せた。
「ご迷惑をお掛けしました。どちらかにお出掛けされるご予定だったのでは?」
久美子は痛みに耐えながら微笑んで見せた。
「いいの、いいの。野暮用だったんだから。別に今日じゃなくても平気♪」
久美子はフフッと含み笑いをした。
「坂井さん、やっぱりALPEEの坂羅井さんに似てる」
坂羅井はうろたえた。
「え……?うん、良く言われるんだよ。さんぐらすをしたら似ているんじゃないか、って」
「あの……医療費まで立て替えて戴いて……」
久美子は保険証を持っていなかった。
実費が掛かったので、坂羅井が持ち合わせで立て替えて払って上げたのである。
「そんな事、気にしない気にしない」
確かに坂羅井にしてみれば、大した金額では無かった。
「そんな訳には行きません。すぐにお返しします。銀行に寄りますので、少し待って戴けませんか?」
「駄目だよ。とにかく今日は早く家に帰って、休んでいた方がいいよ。たくしーを呼んで上げる」
「でも……」
久美子は躊躇い、それから遠慮勝ちに聞いて来た。
「それでは、連絡先を教えて下さい。後日また逢って戴けませんか?お礼もしたいし、良かったらお食事でもご馳走させて下さい」
「本当にいいの。わたしが通り掛かったのも何かの縁なんだから♪どうしてもと言うなら、あいつの所に保険証を見せに行く時に預けておいてくれればいいよ。友達だから」
坂羅井が連れて行ったのは、友達が外科医として務めている病院だった。
彼には目配せをして、本名で呼び掛けられる前に上手く誤魔化した。
久美子の表情は見る見る内に沈んで行った。
彼女も坂羅井に好意を持ったらしい。
だが、坂羅井は気付いてしまったのだ。
彼女が治療室に入る時、その左手の薬指に光る物に……。
短い間だが淡い恋のような物を覚えた。
彼の心は少年にように浮き立つ物を抑え切れないでいた。
しかし……人妻だと解った以上、その思いは今すぐ忘れなければならない。
今なら、間に合う。
お互いに傷付かない内に。
まだ傷付く事すら出来ない、芽生え掛けて急速に萎んだ恋。
2度と逢う事は無いだろう。
タクシーに乗り込む久美子を見送りながら、坂羅井は少しだけ切ない思いをした。
胸がズキンと泣くのを感じてか、少し鼻を啜ると、彼はタクシーが視界から消え去る前に、踵(きびす)を返した。
眩しい程の太陽が彼を照らしていた。
サングラスをしていない彼は、思わず目を細め、右手でその光を遮った。
まだ夕暮れには間があった……。
少しだけ、まだ心がズキンと動いた。
白昼夢を見たような思いがした。

 

− 終わり −