生きるということ、死ぬということ。

 

いつも窓から外を眺めるだけだった。
窓から手を出して、外の空気に触れる事も許されなかった。
病弱な故、部屋に閉じこもったまま、二十代半ばのこの年齢まで過ごした。
そして、新たな病いの発病。
ついに自宅療養では遣り過ごせず、檻のような病院に入れられた。
妾の子の僕は、この家では邪魔な存在だった。
1つの部屋に閉じ込められ、勉強も生活も全てその中で営まれ、友と接する事も無く、僕は生きて来た。
たった1人、僕の家庭教師兼ボディーガードのジョンを除いては……身の回りの世話をしてくれる女中と、たまにやって来る医者以外の人間と接した事は全く無かった。
入院先で初めて、医者の先生の看護婦と出逢った位で、女性との接点も無く、僕は窓の外で見掛ける美しい女に恋慕するだけ。
このまま恋と言う物を知らぬままに僕の時は止まってしまうのか……。

 

 

病院に移ってから、窓際のカーテンは出来るだけ開けて貰うようにした。
僕の病気は脳腫瘍だそうだ。
腫瘍が大きくなり始めて、視神経を圧迫している。
近い内、僕は視力を失う。
窓の外では雪が舞っていた。
ジョンは雪は冷たいもので、触れるとすぐに溶けて無くなってしまうのだ、と僕に教えてくれた。
だけど、僕は1度も雪に触れた事が無い。
窓の外を舞っているのを見るだけだ。
もっと、見たい。この眼が見える内に。
手を伸ばして、あの雪に触れてみたい。
その冷たさをこの身で感じてみたい。
僕の欲求は膨らむばかりだった。
せめて外の世界に一歩踏み出してみたい……。
僕の胸の中はその想いで一杯になって、はちきれそうだ。
窓の外の寒さも予想だにしなかった僕は、部屋着のままで衝動的に飛び出した。
ジョンがちょっと座を外したその間に。

 

 

今頃、病院は大騒ぎだろう。
今、僕はあれほど切望していた冷たい外の世界を歩いている。
家の中にこもって生活をして来た僕の足は、頼りなく、覚束ない。
でも、前には進む事が出来る。
冷たい雪が降り注いで来る。
冷たさに震えるのも初めての経験だった。
そんな些細な事がこんなに嬉しいとは。
自由に歩ける事が、こんなに喜ばしい事だとは……。
背中に羽が生えたような気分だ。
僕にはもうすぐ、この美しい雪も見る事が出来なくなる。
初めて体験したこの冷たさもいつかは感じる事が出来なくなる。
そして……不条理にも僕の生命は、僕の意志に反して、途中で……絶たれる。
どうして?僕には、他の誰もに当たり前のようにある事が、与えられないのか?
両親の愛も、心と身体の自由も……。
頭がクラクラして来た。また頭痛の発作だ。
僕の頭の中で、どんどん腫瘍が育って行く。
それが僕の中でイメージとして、映像になって行く。
僕は崩れそうになった。
「……クロ……ド!……クロード!!」
空耳かと思った。
その時、黒いコートを翻したジョンの姿が僕の眼に飛び込んだ。
「何て無茶な事を!」
ジョンはそのコートを脱いで、僕の肩に被せた。
コートの下も黒一色だ。ジョンは最近はいつでも全身を黒で飾っている。
それが僕に対する思いやりだとは、僕は気付いていなかった。
僕が少しずつ失って行く筈の視力。
それを少しでも感じさせないように……。
彼は着ている物に色を使わないようになったのだ。
「見たかったんだ……体感したかった……あんな処に一生閉じ込められて死ぬなんてイヤだ!!」
「クロード……」
ジョンは黙って僕を抱き締めた。
僕は一瞬、周囲の眼を気にした。
だけど、雪が舞うパリ郊外の住宅地に、人は誰一人いなかった。
「離…して……ひとりになりたいんだ。誰にも解らない!これから消えて行く僕の気持ちなんか!!……親でさえ、解ってくれなかった……僕を放り出して、顧みもせずに……」
「駄目か…?俺だけじゃ、駄目か?」
ジョンが僕の耳元で囁いた。
「えっ?」
「俺はお前をずっと見て来た……お前を失いたくない!……そう、思うのが俺だけでは不満か?」
「…………………………」
「今日、お前が視界から消えて、どれだけ俺がうろたえたか、解るか?どれだけ苦しんだのか、解るか?お前がこのまま消えてしまったら……俺の喪失感が解るか!?」
首筋に冷たい感触があった。
ジョンの涙だった。
ジョンは金持ちの僕の両親が宛がった、ただの家庭教師兼ボディーガードだと、僕はたった今までそう思って来たのに。
彼はそんなにまで、僕の事を思っていてくれたのだ。
「僕の生命はもうすぐ、絶たれる。どの道、僕を失う事になるんだよ……」
僕は優しい声で呟いた。
「ふんっ!勝手に消えられるよりはずっといいさ。俺が見守っていてやる……辛い時も嬉しい時も、哀しい時も……幸せな時も。全部な!」
ジョンが僕を抱き締める腕に力がこもった。
「い……痛いよ」
「今日はとことん付き合ってやる。お前が行きたい所はどこへでもな。その代わり、夕方にはちゃんと病室に戻ろうな」
ジョンは何も言えないでいる僕の唇に軽く口付けした。
「愛しているのさ……俺の大事な若くて壊れやすい友達、クロード……」
彼の声を聞いた時、『僕は今、生きている。』 ……初めてそんな気が、した……

 

− 終わり −