ひとときの邂逅

 

この作品は磯宮様のHP『夢★始末記』15万hitの
お祝いとして磯宮様に差し上げた
『道があり、私はただ突き進むのみ…』の続編です。
こちらも追ってプレゼントさせて戴きました。

 

 

私は沖田様が慌ただしく京へと発たれた後、戴いた手紙を大切に折り畳んでお守り袋に入れ、
常に身に付けておりました。
もう再び逢う事はあるまい。私はそう思っていたのです。
たった1度の逢瀬でしたが、淡いときめきが却って強烈に私の心に刻み込まれていました。
あの後、祖母を看取り、父の勧める家へ嫁いだ私は、縁があって松本良順先生の元で患者さん
の看病をお手伝いするようになりました。
祖母を看病し続けた実績を先生に買われ、松本先生直々に、ぜひにと夫に請うて下さったのです。
以前、松本先生の所にお役目で東帰して来た近藤勇先生が訪ねて来た事がありました。
その時、私はあの試衛館の道場主だと言う事に気が付きませんでした。
余りにも威風堂々としていて、ご立派になられていたからです。
その姿をチラと見掛けた私は、後であれが新撰組局長・近藤勇先生だと聞いて、胸が高鳴るのを
覚えました。
きっとあの人の下で働いている沖田様は、八面六臂のご活躍をされている事だろう、と思いを馳せ
ました。
池田屋での奮戦は、遠い江戸にも聞こえていて、私も耳にしておりました。
あのお優しい笑顔の沖田様と同一人物のようには思えなかったけれど、沖田様はあの道場でも屈
指の剣客でいらしたからご活躍は当然だろう、と言う矛盾した感想も脳裡に浮かびました。
とにかくお元気である事だけは間違いない、と心から安心したものです。
その沖田様が、池田屋の時に既に血を喀かれ、病に冒されていたなどとは、全く知る由もございま
せんでした。
慶応4年、新撰組の方々が船で敗走して来られました。
松本先生の医学所はてんやわんやの大騒ぎでした。
墨染とやら言う場所で狙撃されて、肩をご負傷なさったと言う近藤先生が、傷の再治療の為、暫く
療養に来られると言うのです。
私は沖田様の事が心配でした。
近藤先生が狙撃された時、沖田様はご一緒だったのだろうか?
お怪我は無かったのだろうか?
頭の中をグルグルとそんな事が駆け巡り、私は気が気ではありませんでした。
まだその時は沖田様のご病気の事は存じませんでしたし、此処で働いているよりも、新撰組の皆さ
んが上陸したと言う品川宿を歩き回って沖田様のお姿を一目見たい、と言う気持ちで一杯になって
おりました。
しかし、この非常時にそんな我儘が通用する筈も無く、私はそれを言い出す事を慎みました。
やがて、近藤先生が籠に揺られて到着なさいました。
籠は1つではありませんでした。
2つ目の籠は、中で客が仰臥出来る形の物で、さぞかし重態の方が乗っておいでなのだろう、と言
う事が察せられました。
近藤先生は、1つ目の籠からご自分で歩いて降りていらっしゃいました。
思っていたよりもお元気そうでした。落ち着かれたら沖田様の事をお伺いしてみようと心に決めました。
まさかその後、2つ目の籠からあの方が降りて来られようとは………
一見して衰弱の様子がありありと見られるその若い武士は、私があれほど焦がれていた沖田様その
人だったのです。
「沖田様っ!!」
思わず、叫んでしまった私。籠から戸板に移された彼は薄く眼を開きました。
「……………お磯、さん……?」
沖田様は私の事を覚えていて下さいました。
嬉しいやら哀しいやら、私は訳が解らなくなって、気が付くと涙が滂沱と溢れ、お見苦しい状態に陥っ
てしまいました。
「お主達、旧知の間柄だったのかえ?」
声に振り返ると、後ろに松本先生が立っておいででした。
私は多分赤面してしまった事でしょう。
松本先生は訳知り顔で頷くと、『では、沖田君はお前さんに担当して貰おうかね』と呟かれたのです。

 

 

沖田様の容態は良いとは言えませんでした。
池田屋で血を喀かれたとの事。良く此処まで耐えて来られたと感心しました。
新撰組と言う激しく生命のやり取りをするような場所で、病身を労わる事もせずに働き続けて、此処
まで生命を永らえるとは……
松本先生もその生命力に驚いておいででした。
取り敢えず寝床に落ち着かれると、沖田様は船旅のお疲れが出たのでしょう、すぐにお寝みになら
れました。
お顔の色は優れません。真っ青になっておいでです。
私は不安を隠し切れませんでした。
松本先生は、眠っている沖田様を起こさないようにそっと回診に来られ、『出来るだけ明るく普通に
振舞ってやりなさい』と言われました。
私はなるべくそのように心掛けて、沖田様の前では決して涙を見せたりしないようにしよう、と心に
誓いました。
沖田様は一刻程眠られて、眼を覚まされました。
丁度、夕刻の食事の時間に差し掛かっておりました。
既に病が昂じて食欲はすっかり失っておられましたので、魚の煮汁でお粥を拵えて差し上げました。
沖田様は始め『食べたくないのです。すみませんが下げて下さい』と仰いましたが、私が『少しでも
召し上がって、早く元気になって下さらないと』と申し上げると、苦しい呼吸の中、きちんと半身を起
こして『それでは努力してみましょう』と力無くお笑いになりました。
私がお給仕して差し上げようとすると、沖田様はひどく恥ずかしがられました。
「イヤだなぁ、お磯さん。子供じゃないのですから」
「病人に大人も子供も関係ありません。良くなるまでは私達に甘えて下さって良いのです」
私はキッパリと答えました。
沖田様は苦笑してから、黙って私が差し出した粥の一口を口に含んだのでした。
「お磯さんは全く変わっていませんね」
余り食が進まなかった事に少なからずショックを受けていた私に、沖田様は声を掛けてくれました。
「沖田様だって変わっていないじゃありませんか?」
「いいえ……私は変わりました。この手は血にまみれています……他人の血、自分の血……私の
 剣はどれだけの血を吸ったのか…」
沖田様の表情には疲労と翳りが見えました。
「沖田様、少しお疲れになったでしょう。横になって下さいませ」
私は手を貸して、沖田様を寝床に就かせました。
「その沖田様って言うの、止めて下さいよ。くすぐったいから……」
沖田様は掠れ声で仰いました。労咳の末期の症状です。少し話をされるとすぐにお疲れになるの
です。
「解りました。これからは総司さんと呼ばせて戴きますから、安心してお休みなさい」
総司さんは眼を閉じてから、ふと呟いたのです。
「実里さん……逢えて嬉しかった……」
私は自分の耳を疑いました。
「いつ、解ったの?」
「京への道中、貴女の事を考えながら……。いろんな事を考える時間があったから。どうしてすぐに
 気付かなかったのかなぁ?」
「総司さん……」
「まさか…此処で逢えるなんて。あの時、約束を守れなかった事を詫びていませんでしたね……許
 して下さい」
「あの時の手紙……ほら、こうして今も肌身離さず持っているのですよ」
私はお守り袋を見せました。
「そうでしたか……まだ持っていてくれただなんて……ありがとう」
総司さんは至福の表情を浮かべて、そう仰いました。
私は言葉が出ませんでした。
「貴女が此処にいらっしゃると言う事は、お婆さんは亡くなったんですね?」
「はい……あれから程無く……」
「それは残念な事でした……」
総司さんは、自分の肉親を亡くしたかのように、表情を曇らせました。
「あの時は、祖母に総司さんを独占されてしまったわ。でも、今度は私の番ね」
「実里さんも人が悪い。どうしてあの時、お磯さんだと名乗ったのです?」
総司さんはそこまで言って、咳き込まれました。
やつれた背中が大きく揺れ、苦しそうに断続的な咳は続きました。
この咳だけでも、身体に障るのだと松本先生に教わっていましたので、私はすぐに薬湯を用意して、
総司さんに少しずつ飲ませました。
幸い、喀血には至らず、少しずつ咳は収まりました。
「今日の処はこの位にしておきましょう。話の続きは明日に取っておきましょうね」
私は総司さんに布団を掛けて、部屋の灯りを暗くしました。
「私には…明日があるか、どうか…解りませんけどね……」
私はその言葉に胸を打たれました。
死期が迫っている人に確たる明日の話をしてしまったのです。
総司さんは私のうろたえに気付かれた様子でした。
「そんなつもりで、言ったのでは、ないのです。気にしないで、下さいね、実里さん。私は…明日が来
 ない、事が怖いの、ではありません。もう…覚悟をするだけの、時間は…充分に、あったのですから」
私は答えられません。
「私は…自分の生命の、限りを、ある程度、知る事が出来た……だから、やり残した、事は、もう、あり
 ません。こうして、貴女と、再会も、果たせた……」
「総司さん……」
「貴女に、逢えて…本当に、良かった……」
総司さんは、満足げに微笑んで、疲れたのかやっとお寝みになられたのでした。

 

 

私達はその夜が、ゆっくりと話が出来た最初で最後の日になろうとは思いも寄らなかったのです。
次の朝、新撰組の屈強な方々が数名、総司さんを迎えに来られました。
松本先生は幕府のご典医です。近藤先生はすぐに回復されそうなので、此処に後数日残られると
の事でしたが、総司さんはご典医の元に置いては、危険だと言う話になったようです。
松本先生はその朝早く、間が悪そうな顔をして私の所においでになり、その事を告げたのです。
「すまねえなぁ〜。沖田君の面倒は任せるつもりだったのだが、無理なようだ。官軍が眼の色を変
 えて沖田君を探しておる。取り敢えず俺の妾宅で面倒を見させるつもりだ。我慢してくれ。沖田君
 もあんたを危険に晒したくないと言っている。これから彼を移すが、あんたは着いて行ってはなら
 ねえ。いいな」
松本先生は、用件だけを私に告げ、くるりと背を向けました。
そのまま背中越しに仰いました。
「沖田君は間もなく、此処を出立する。別れを言う時間位、作ってやるよ。行って来な!」
私には呆然としている時間などありませんでした。
初めて逢った時も、この再会も、短い時間しか私達には与えられませんでした。
総司さんと私が結ばれる運命に無い事は解っていました。解っているつもりでした。
例え、共に数えた時間は少なくとも、私達は密度の濃い心の交情を得た筈です。
総司さんは、病室で畳んだ布団に寄り掛かる形で、きちんと正座をなさって、私を待っておいで
でした。
他の隊士の皆さんは別室でお待ちになっているようでした。
「実里さん、急に、こんな事になりました……貴女には、お世話になりましたね…昨日1日、傍に
 いて、くれただけで、どれだけ私が安らいだか……ありがとう。そして…息災でいて下さい……」
松本先生の妾宅は今戸と聞いています。私の足でも行けない距離ではありませんでした。
でも、総司さんは『来てはならない』と私に告げました。
私の身の危険を考えてくれているのだと解りましたが、それだけではなかったようです。
これ以上、病み衰えるだけの自分の姿を私に見られたくなかったのでしょう。
「貴女の…記憶の中、には、あの雨降りの日の、私だけを、留めていては、くれませんか?」
総司さんは苦しそうな息の中、やっとそれを私に仰いました。
「せめて…貴女の中では、快活で…いつも、笑って、いる私、でいたい……我儘だと、笑いますか?」
私は大きく何度も首を振って見せました。
でも、言葉は何も出て来ませんでした。何かを口に出せば、嗚咽が洩れてしまいそうだったのです。
「沖田君、時間だよ」
ぶっきらぼうに入って来た松本先生の言葉が、ついに2人の永遠の別れの時を告げました。
「実里さん……いえ、此処では、お磯さん、でしたね……お世話、に、なりました。貴女の、看護を…
 受けて、これからも、沢山の人が……幸せな気持ち、で此処を旅立って、行く事、でしょう……私、
 には、眼に、見える、ようですよ」
「沖田君、いい加減にしねぇか……籠に乗る前からそんなに疲れては、向こうに着くまでに、ばてて
 しまうぞ」
松本先生がこれ以上の会話を許しませんでした。
総司さんの容態を考えれば、仕方が無かったのでしょう。
総司さんは戸板に乗せられ、屈強な隊士達がそれを持ち上げます。
何かの儀式のように、総司さんは眼を閉じました。
それきり私を見る事もなく、そろそろと運ばれて行きました。
私はついに目頭が熱くなるのを覚えました。
涙を見せないと誓ったのに……段々と遠ざかる総司さんの姿が、涙に遮られて見えなくなりました。

 

 

それが、私が見た総司さんの最後の姿です。
私は最後まで総司さんに嫁いだ事を告げずに終わりました。ついに言い出す事が出来なかったの
です。
その後、今戸から更に植木屋さんの家に移って、そこでお亡くなりになったと、後で聞きました。
最期の時は、お独りでいらしたとか。
あの賑やかな総司さんには似つかわしくないような気も致しましたが、京で剣鬼と呼ばれた沖田総
司の末期としては、斬った人間の数だけ孤独になって逝かれたのだと思います。
今、明治の時を迎え、貴方が闘い続けた時代は終わりました。
沢山の犠牲を経て、迎えた時代です。
これからの時代はどうなって行くのでしょう。
あなた方が信念を持って闘って来たその事を、後世の人間が無駄にしないように、私は生きられる
限り、それを見届ける事にします。

 

− 終わり −