回想の夜

 

 

皆越未名呼(みなこし・みなこ)は、暮れを迎えた今日で店を閉める事にしていた。
夫に先立たれてから始めた座敷もない小さなこの小料理屋も、今や20数年の歴史を誇り、カウンターや椅子、テーブルのちょっとした傷にも20年分の重みがある。
彼女は最後の日の開店準備を黙々と続けている。
感慨深い思いを胸に秘めながら、今日一日いつもと変わらずに客を持て成せるように、と神仏に祈るような気持ちでいる。
彼女の妙な名前は婚姻による物だ。
この店の客には、「おばさん」と呼ばれて親しまれていたが、若い客は誰も彼女の名前を知らなかった。
彼女は決してこの名前を嫌っていた訳ではない。
だが、自分はみんなの「おばさん」でいたかった。
だから、問われても笑って答えなかった。
いつの間にか、彼女も60を過ぎていた。
夢中で生きて来た。
14年間連れ添った夫を失ってからずっと…
刑事だった夫。42歳の厄年の時に、殉職した。
彼女が39歳になった夏だった。
優しい夫だったが、二人の間に子供はなかった。
彼女はたった一人残された。
残った物は、図らずも夫の生命と引き換えに受け取った保険金だけだった。
彼女の知らない内に夫が掛けていた保険だ。
その金で新宿の表通りから一本奥に入った場所にあるこの店を手に入れた。
亡くなった夫を慕う後輩刑事や同僚達が、彼女の客になった。
そして、その客達も先輩が後輩を連れて来ては、少しずつ代替わりして行った。
今でも元気な顔を見せてくれる者、転勤で遠くに去って行った者、定年退職した者、中には天寿を全うしたり、儚くも若くして世を去ってしまった者も……いくつもの心温まる交流が彼女の周りにあった。
思い返して見れば、有難い事にこれが夫の残してくれた一番の形見だった。
その夫の形見達のお陰で、彼女はひとりになれば、夫のいない日々を辛く思う事もあったが、余りそんな思いをする時間を持たずに済んだのであった。
その中に、彼女に取っては息子のように思えるような三人の若い刑事がいた。

 

 

客足が途絶える頃を狙ってその男は一人で来た。
「いらっしゃい!」
いつものように、威勢良く客を迎える。
背が高く、ヒョロッとした優しげな容貌の男が入って来た。
「おばさん、久し振り」
松田梨樹(りき)は、抱えて来た小さな花束を隠すようにして入って来た。
年の頃は三十に満たないように見えるが、実年齢はもう38を数える筈だ。
「梨樹。来てくれたのね」
彼女は当然のようにカウンター席に彼を誘い、すかさずお茶を入れた。
「あんた、奥さんや子供達をほっといていいのかい?折角の大晦日だと言うのに…」
おばさんは嬉しい癖に、彼の短い髪の毛をくしゃくしゃに掻き混ぜ、憎まれ口を叩いた。
「今日はいいんだよ。こんな日に家にいたら、蘭に却って怒鳴られるさ」
と、彼は結婚して10年になる妻の名を口にした。
10代の頃からの友人の妹だから、長い付き合いだ。
カウンターに座るとおばさんの死角になるように、隣の椅子に花束を置いた。
「おばさんと年を越したくてね。最後の客は俺だよ。さあ、ここで飲むのも今日で最後なんだから……取り敢えずおばさんの飯をなんか喰わせてよ」
「納豆定食?」
おばさんは髪の毛をいじったその手を消毒しながら、梨樹が昔から良く店に来るなり叫んだメニューを口にした。
「うん」
ここの定食は、いつでも品数が多くて、栄養バランスが良く考えられていた。
それが肉体労働系の刑事達には評判だった。
「この間、正義(せいぎ)君から手紙が来たわよ」
おばさんは料理の手を休めずに、10年前にパリの国際刑事警察機構(インターポール)本部に行ったまま帰って来ない牧野正義の名を口に出した。
勤務している署は違ったが、梨樹の同期の男である。
「あんたにせかされた、って書いてあったわ」
「あいつ忙しがってなかなか便りを寄越さないからさ。たまにはおばさんに写真でも送れって」
おばさんはそれを聞いて得心が行ったかのように頷いた。
「なるほど、それであの写真…」
「あ、送って来たんだ」
おばさんは手を拭いて、割烹着のポケットから一葉の写真を取り出して見せた。
ルーブル美術館の建物をバックにして、端正な顔立ちに理知的な表情のスーツ姿の男が一人で写っている。
少し照れ臭そうだ。
同僚に撮って貰った、と手紙にはあった。
「うん。あの子、全然変わってないわね」
「インターポールでは結構なポストに就いているみたいだよ。あそこは実力主義だからね。何度か断ったみたいだけど、断り切れなくなったらしい。尤もあいつ、自分じゃそんな事は言わないけどね。でも、現場好きだから、本部に大人しく納まっちゃいないようだ」
「まだ30代なんだから、そりゃあ、大人しくはしていられないでしょうよ」
おばさんは、鰯を焼き始めた。
「あれ?おばさん、いわし定食じゃないよ」
「解ってるわよ。最後だからね。サービスよ!」
梨樹も当時はここ新宿・伏見署の平刑事だったが、あれから結婚して二児(それも男女の双生児)の父になり、今では江東警察署の巡査部長として、部下を纏めている。
……それだけの時が、経っている。
おばさんは感慨深げに呟いた。
「祐さんも生きていたら今頃…」
と、最後の一人、風見祐介の名を出した。
彼は10年前に27歳の若さで生命を落としている。
彼女の亡き夫と同じように、殉職した。
ある事件で負った傷が原因で、晩年は限りのある生命を知りながら、精神的にも肉体的にも苦しみ抜いて逝った。
「祐さんは、本庁が欲しがってたからなぁ…生きてたら、今頃本庁捜査一課の敏腕刑事さんだったよ、きっと」
梨樹も遠い眼をして答えた。
彼や正義も背は高い方だが、祐介は更に高かった。
185cmは優にあり、それに似合わぬ、色白で「妖艶な」と形容すべき容貌を少し長めの柔らかそうな髪で包んでいた。
とても刑事には見えず、その美しい容貌を活かしてモデルにでもなっていれば、今頃は元気で、華やかな芸能界の中で活躍していたかもしれない。
これはおばさんと梨樹の共通した意見である。
生きていたら、祐介は37歳になっていた筈だ。
そう思うと、おばさんには辛過ぎる。
「あの子は、生き急ぎ過ぎたわ。結婚もしない内に…」
おばさんは定食を梨樹に出しながら、溜息を衝いた。
「おばさん、それを言っちゃあ、正義もまだ嫁さん貰ってないよ」
「そうね。あんただけね。ちゃんと家庭を築いているのは。偉い偉い」
「おばさん、全然偉いと思っているように聞こえないよ…それじゃ、いただきます」
梨樹は、丁寧にお辞儀をして、食事に箸を付けた。
「心して食べなさいよ」
おばさんの言葉に頷きながら、彼は箸で鰯の皮を綺麗に身から剥がした。
彼は独身時代自炊をしていて、結構料理の腕前が良かった。
だから、食べ方も器用で綺麗だ。
「俊樹くんと梨花ちゃんはどうよ?元気かい?」
おばさんは鰯を焼いた網を洗いながら彼の子供達の事を訊いた。
梨樹は手を使わずに鰯の身をほぐし乍ら、少し苦笑して「どっちが男の子か解らない位で困ってるよ」と答えた。
「梨花ちゃんの方が強い?」
「うん。それにませててさぁ。何時の間にか俺のアルバムを引っ張り出して来て、祐さんの写真を見て、一目惚れしてんだよ」
梨樹は困った顔をした。
「あいつはもういないのに…」
遠い眼をして呟く。
「あの子、あんた達と来たのが最後で…私の所へは来なくなって……」
「おばさんの心の中には、元気な時のままの自分を住まわせて置きたかったんだろうな。弱って行く自分の姿を俺達にも見せなかった…水臭いと思ったよ。悔しかった…でも、あいつなりに苦しんで、誰にも気取られまいとしたんだろう……年を経る毎にあいつの事がいじらしく思えるようになったよ」
「そうね。胸が締め付けられる思いがするわ……あんな事が無ければ今ここに元気な顔を出してくれていた筈なのに……」
おばさんはふたつのグラスにビールを注いで、ひとつを梨樹に差し出した。
「でも、あの子は薄命な感じがずっと漂ってた…儚い感じがね。何だか見ていて痛ましかったのよ……元気だっ た頃からね。その分、あの子の笑顔は澄んでいた……好きだったのよ。祐さんの笑顔が」
「知ってたよ」
梨樹はビールを呷って答えた。
「何だかこの世の物ではないような気がしてた…ある意味ではそれがひどく怖かった……」
「正義がね。祐さんが逝った後、同じような事を言っていた……あいつの前でそんな事を言う訳には行かないから誰にも言わなかったって………」
梨樹の眼が遠くを見詰めた。
「生きていて欲しかったよ。共に歳を重ねて、また此処で逢いたかった。おばさんの店が閉まるこの日に、俺ひとりなんて、こんな寂しい事は無い……」
「私は、梨樹が来てくれただけで充分さ。あんたと飲みたかった。正義君は元気そうに走り回っている事が解ったし、私はもうこれ以上の幸せは無いと思ってるよ」
おばさんはそっと瞳を閉じた。
「あんた達2人は死なないと信じてるわ。きっと祐さんが死なせはしない。あの子はきっとどこかでみんなを見ているのよ。死に際に言った言葉を知ってる?」
「………真っ赤に染まった夕焼けを見て、『あそこでみんなの事を見続けていたい』って言ったんだろう?」
「最期に眼にしたのは、その燃えるような夕焼けだっただろう、って、彼の上司が………」
「…………………………」
「祐さんはその言葉通りに私達を見守ってくれているような気がするわ。静かに守ってくれている。時々、彼の気 を感じたように思う事があったの。お陰で心強かったわ。何事も無く、今日を迎える事が出来た………」
「おばさん、これからどうするの?」
「此処を人手に渡そうと考えていたんだけど、思い出が沢山詰まっていて、とても出来ないわ。だから、間借りしているアパートの方を引き払って、此処に移り住むつもりよ。此処は買った物だから、家賃も浮くしね。これまでコツコツと貯めて来た物と、年金で細々と暮らして行くわ」
「寂しくないの?」
「あんた、たまに蘭ちゃんや子供達を連れて遊びに来なさいよ。私が暇で狂い死にしない程度に」
「じゃあ今度は俺が此処でうまいもんを作って食べさせてやるよ。これでも、料理は得意なんだよ!」
「知ってるわよ。祐さん達から聞いてたわ。あんた達、夫婦揃って料理上手だから、子供達は幸せね」
「俺は余りやる暇も無いけどね。事件が立て込むと非番も飛んでしまう」
「まあ、刑事をやっていながら、奥さんとも上手く行き、子供達はすくすくと素直に育っている。いい事じゃないの!」
おばさんが笑った。
除夜の鐘が静かに鳴り響き出した。
ついに、今年も終わりの時を迎える。
「良かった……年末特別強化パトロール中だから、いつ呼び出されるかとヒヤヒヤしてたんだ。どうやら無事に年が明けそうだね」
梨樹が溜息を衝いた。
その時、店の扉をドンドンと叩く者があった。
「何だろうね?こんな時間に。無粋だわ」
おばさんが呟いて、引き戸を開けると………眼の前に大輪の真っ赤な薔薇の花束。
「除夜の鐘が鳴り出したら届けてくれって言う注文でね。パリの牧野正義さんから。はい、じゃあ、確かに渡しましたよ」
花屋は少し迷惑そうな顔で言うと、そそくさと立ち去った。
「正義の奴、いい処を掻っ攫ったな……」
梨樹は届いたその花束を見て、頭を掻いた。

牧野正義から送られた薔薇の花束

 

  

− 終わり −