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その声を聞かせて

 

 

※この作品は145000hitのkyukyu様に捧げます

 

その朝は梅雨の合間の晴れ間とでも言うか、真夏のように見事に晴れ上がり、
蒸すような暑さだった。
朝はずっと点けたままにしているテレビの情報番組でも、天気予報では雨の確率は
0%だと告げていた。
怜子は30代後半、結婚して10年を超す専業主婦だ。
今朝ももう既に『ただの同居人』となっている夫を機械的に送り出す為に、朝食を
準備し、洗濯機を回している。
背中まで伸ばした髪を無造作に束ね、化粧っ気のない顔でまるで感情が無いかの
ように黙々と作業をしていた。
服装もまるで自分に構っていない風で、Tシャツに短パン、それにエプロンを首から
下げている。
彼女が家の中で女を忘れ、ただ形式上の『妻の仕事』をこなしているには、訳がある。
夫の浮気。それだけでは無い。その浮気相手が妊娠した事を怜子は半年前に知った。
彼女は結婚して3年程、子供が出来ず、時折やって来る口煩い姑にガミガミと責めら
れ続けた。
そして漸く授かった子は、姑との確執によるストレスで、流れてしまったのだ。
それ以来、彼女は夫と触れ合う事すら怖くなってしまっていた。
夫がそんな彼女に我慢出来ず、別の若い女性とそうなってしまった事は、自然の摂理
かもしれない。
怜子は無理にそう思い込むようにして、何とか夫との2人暮らしを続けていたのだった。
その日もいつもの通り、夫を送り出し、マンションのベランダに洗濯物を干し終えると、
怜子は深い溜息を吐(つ)いた。
朝から汗を掻いてしまったので、着ていた服を脱ぐ。
全てを脱衣カゴに入れて、シャワーで汗を流し始めた。
怜子は先程も触れたように30代後半だが、その身体のラインは全く崩れていなかった。
子供を産まなかったせいだろうか?
白い肌もまだ瑞々しく、彼女のその姿は女性として十二分に美しかった。
女盛り、とはまさに彼女の事だろう。
彼女が夫を拒否するようになってしまったのは、その口煩い母親のせいだったに違いない。
決して、夫との『その事』がイヤだった訳ではなく、ただ怖かったのだ。
また大切な物を失う事が……。
だからこそ、夫に申し訳ないと言う気持ちだったし、彼の浮気を黙認する気になったのだ。
生まれて来る愛人の子には罪が無い。
自分が引き取って育ててもいい。
怜子はそうまで思っている。
だが、離れて行ってしまった夫の愛情まではもう取り戻せない。
いつ、別れてくれと言われても不思議では無い状況になりつつあった。
今日は週に2度のフラワーアレンジメント教室の日だった。
バスタオルで身体を拭くと、怜子は先程までとは見違えるような、華やかな花柄の
ワンピースに着替えた。
長い髪は器用にアップに結い上げて、化粧だってきちんとした。
鏡の中には、別人のように……いや、夫との愛が冷え切る以前のように戻った彼女がいた。
5〜6歳は若返った怜子は、漸くそれで重い気分を華やいだ物にする事が出来たのだった。

 

教室では、いつも先生に『筋が良い』と褒められた。
自分の助手として本格的に手伝ってくれないか、とまで勧められている。
いずれは自分の教室を持ちたいと考え始めている怜子には願ってもない話だ。
怜子のフラワーアレンジは斬新だった。
教室が主催した展覧会でも評判が良かった。
今日は授業の後、先生と今後の相談をしていたので、いつもより少し教室を出るのが
遅くなってしまった。
眩しい陽射しと、鮮やかな緑に心を奪われながら、邸宅街から駅へと向かう。
怜子の足取りは軽やかだ。
とても、自宅マンションでの彼女と同一人物には見えない。
夫が見たら、何と言うだろう。
彼はもう、こんなに明るい表情の怜子を長きに渡り眼にしていない筈だ。
怜子が歩き出して暫くするとポツポツと雨の雫が落ちて来た。
天気予報を鵜呑みにしていた彼女は折り畳みの傘すら持ってはいなかった。
近くにコンビニがあったら、その場凌ぎに傘を買おう、そう思って足早に駆け始めたが
雨足は酷くなりそうだ。
通り雨に違いない。
そう思った時、怜子はふと眼に入った喫茶店に咄嗟に飛び込んだ。
何も考えずに中に入ってから、店内を見回した。
雨が降る前から居たと思われる常連らしき客達が、珍しいものを見るかのように彼女を見た。
それから自分達の不躾さに気付いた彼らは、そっと然りげなく怜子から視線を外し、
それまで興じていた会話に戻った。
ガヤガヤとしているが居心地は悪くない。怜子はそう思った。
ただ、殺風景な印象が強く残った。
午後の3時。客層は様々である。
営業途中のサラリーマン、近所の主婦。
学校が終わったばかりの賑やかな学生達。
ちょっと空いている席を見定めるのに時間を要していた怜子にマスターが優しく声を
掛けてくれた。
「こちらへどうぞ。カウンター席ですが」
その声は低くて渋い。しかし何かホッとさせてくれる暖かみがあった。
まろやかな感じを覚えた。
40代半ばと思われる髭面のマスターは、その表情も優しかった。
背はスラッと高く、その身体は折れそうに細かった。
しかし、半袖のカッターシャツから覗く腕はそれなりに逞しかった。
駅前の商店街から少し離れたこんな隠れ家のような喫茶店を営んでいるのは、
彼なりの拘りがありそうだ、と怜子は思った。
店は20畳程の広さで、マスターがひとりで仕切っているようだ。
この位の大きさが丁度良いのだろう。
「降られたようですね。風邪を引きますよ」
マスターはカウンターの中から、清潔な白いタオルを出してくれた。
「これでお拭きなさい」
「でも……」
「いいから」
押しつけがましくは無いが、マスターの優しい声にふんわりと包まれるのが心地好く、
怜子は言われるままにタオルを受け取った。
マスターの魔法に掛かったかのように、怜子は既にこの店の魅力に引き込まれていた。
怜子が落ち着いてから初めてマスターは注文を聞いた。
怜子はエスプレッソを注文した。
マスターの心根を表すかのようなほんわかとして暖かいコーヒーが彼女の心に染み渡る。
怜子はそれを味わって飲んだ。
結局、雨が止んだのにも気付かずに、その居心地の好さに長居をしてしまった。

 

マスターがバツイチだと言う事は、3日後、彼女が洗ったタオルを返しに訪ねた時に聞いた。
夫を仕事に送り出した後、すぐに支度をして出掛けると、店はまだ開店直後で客はひとりも
居なかった。
「わざわざ返さなくても良かったのに……。でも来てくれてありがとう。エスプレッソでいいのかな?」
マスターは優しい笑顔で当然のようにカウンター席へと彼女を誘(いざな)った。
怜子はドキドキとした気分を味わっていた。
これはもしかしたら…?
昔、味わったような淡い『恋』なのかもしれない。
今日もいそいそとシャワーを浴び、エプロン姿から洒落たデザインのスーツ姿に美しく変身
して来た。
いや、本来の彼女の姿はこうだったのだ。
家での彼女の姿は本当の彼女ではない。
「奥さん……綺麗な女(ひと)だと思っていましたが、何がそう奥さんを輝かせているのでしょうね」
マスターが呟いた。
「やはり……人の妻に見えますか……?」
怜子は少し落胆して訊ねた。
「いや……貴女のような素敵な女を放っておく男がいる筈はない」
そんなマスターの話からお互いに自分の身の上話を始めた。
幸いにも2人を邪魔する者の来訪は無かった。
マスターの元妻は大学で助教授をしているとか。
専攻は『何とか化学』と言っていたが、横文字だった事もあり、怜子の心には全く残らなかった。
マスターはサラリーマンだったが、その研究熱心な妻とは段々合わなくなったらしい。
寂しい思いをしている同志だった。
「このお店……流行ってはいるけれど、何か寂しい感じがしたの。殺風景な感じ。
迷惑でなければ、私のフラワーアレンジメントを置いて下さらないかしら?」
怜子は思い切って、そう切り出してみた。
このままタオルを返して、このマスターとの縁が切れてしまうのも、寂しい思いがしたのである。
何とかして繋ぎ止めて置きたかった。
「花なんて……見なくなっていたかもしれないな……」
マスターが空を見上げるかのように顔を天に向け、そして、ふと眼を閉じた。
「……………お願いしましょう、貴女に。この殺風景がどんな風に変わるのか、私に見せて下さい」
しばしの沈黙の後、マスターはその優しい瞳を怜子に向け、そう呟いたのである。
1週間猶予を貰った。
怜子はその間、明けても暮れてもマスターの店のフラワーアレンジメントのプランの事しか考えては
いなかった。
教室の先生には、助手につく日を少し先延ばしにして貰った。
夫の様子がおかしい事にも気付かなかった。
彼は、怜子の浮き足立った様子に気付いて、探偵を雇ったようである。
離婚をしたがっている彼にとっては、これはチャンスだった。
尾行がつき、日に日にマスターと親しくなって行く姿を写真に収められているとは、
怜子には全く考えにも及ばない。
定休日の前日、怜子はついに考えを纏め、閉店後のマスターにイメージのラフ画を見せた。
あとは花を揃え、思い通りに飾るだけである。
自宅に帰る時間がとうに過ぎている事も忘れて、彼女は没頭していた。
「怜子さん……貴女の横顔を見ていると、その美しさに我を忘れてしまいそうだ……」
マスターが顔を背けた。
この20畳のスペースに2人きりなのだ。
恋に墜ちても不思議では無かった。
怜子がマスターの顔を見上げた。
「あなたのその優しい眼……優しい声……夫にはもう無いものばかり」
怜子はついに我を忘れた。
「あなたが……好き……」
言っては行けない事だと思ったが、怜子はついにそれを言葉にし、次の瞬間にはその柔らかな唇を
マスターに奪われていた。
「ああ……」
お互いを求め合い、全身を何とも言えない痺れるような甘い感覚が貫いた。
気が付けば、彼女のブラウスから形の良い胸の膨らみの一部が露わになり掛けていた。
忘れ掛けていた女の部分が目覚めて、怜子の脳を痺れさせた。
愛し合うとは、こう言う事……だったのよ。
怜子はその感覚を思い出していた。
「ああ…何て貴女は美しいんだ……」
耳元で悩ましくマスターが囁いた。
まさか……そこに夫が乗り込んで来ようとは……。

 

怜子と夫は1ヶ月後に離婚した。
マスターとはあれきり逢っていなかった。
このまま淡い恋を抱いたまま、怜子はこの街から離れる事に決めた。
夫は自分の子を産む、あの若い女と今まで怜子と住んでいたマンションで暮らし始めた。
どうして平気なのだろう。不思議で仕方が無かった。
夫もあの女も………。
怜子は何もかも失ったように見えたが、マスターを思う事で心の充実を得ていた。
もう何も障害は無くなったのだから、マスターの懐に飛び込む事だって出来た筈だ。
だが、たった1度、マスターと交わしたあの口付けの思い出だけで、今は……いい。
彼女はそう思った。
男と女として結ばれた訳では無かった。
あの時、夫が飛び込んで来なかったら、多分ふたりは結ばれていただろう。
そうならなかったのも、何か理由があるのに違いない。
これで良かったのかもしれない。
この世で一番素敵なマスターに溺れない内に。
溺れてしまいたい気持ちは今もなお、怜子の心の奥底に残っている。
ふたりとも独り身になったのだから、それでいいじゃない。
そう思えない何かが怜子にはあるのだ。
そう……まだ別れた夫を忘れられなかった……。
だから、これは自分への罰として………自分の一番痛い部分を責める事にした。

 

この土地を離れ、数年経って、マスターが恋しくなるかもしれない。
また、あの低いがまろやかで優しい声を聞きたくなるかもしれない。
その時、初めて自分の気持ちに正直になれるような気がしていた。
そうなった時に、マスターが変わらない気持ちで此処にいてくれたら……。
その時は、きっと………。

 

− 終わり −

※kyukyu様からのリクエストはマスターと主人公の設定にまで及んでおりました。
 以前ご自分で書こうとなさった設定だったそうです。