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忘れ得ぬ恋…

 

「坂羅井、どうした?何、ボーッとしている?」
レコーディングスタジオのブースの中にいる坂羅井に向かって、コントロール卓の前の高根沢が声を掛けた。
高根沢が作詞・作曲した曲のレコーディング。
今度のアルバムの頭に入れる可能性が高い大切な曲である。
歌入れのスタンバイで、坂羅井はヘッドフォンを耳に当て、瞑目していた。
もう1人のメンバー、作崎はラジオのレギュラー番組の生放送の為、此処には居なかった。
都心の所属レコード会社の彼らの専用スタジオ。時は深夜である。
「あ、ごめんごめんっ」
坂羅井は高根沢が首を傾げる程の狼狽振りを見せた。
高根沢は大体の想像が付いたのか、その理由に付いては敢えて聞かなかった。
彼はそう言った事に勘が利く。
恐らく恋愛関係だろうと見抜いていた。
もし作崎がその事に気付いたら、遠慮会釈無く、面白がって坂羅井を問い詰めただろう。
そこが彼らの性格の違いである。
そう……坂羅井は忘れられなかった。
あの日出逢った、久美子と言う人妻の事を……。

 

 

坂羅井は足を捻挫した久美子を助け、友人の病院に連れて行ったあの一件の時、彼女の左手薬指に光る指輪に気付いた時点で、その芽生え掛けた淡い恋心を自分の心から追い出したつもりでいた。
人妻を夫から奪ってまで自分の物にしようなどと言う気は彼には無かったし、最初から縁が無かったのだと、諦めてもいた。
だから、友人に聞けば簡単に彼女の住所や電話番号を調べ上げる事が出来たのだが、それも敢えてしなかった。
だが、芽生えた恋心は、消える処かどんどんと彼の胸の中に育ってしまっていた。
坂羅井は心此処に在らず、と言う状態である事が増えていた。
高根沢が作ったこの曲は、切ない恋を謳ったものだ。
その歌詞がまた坂羅井の心を掻き立てている事に、高根沢は気付いた。
彼は詳しい事情までは知らなかったが、坂羅井の集中力を取り戻す事はあっさりと諦めた。
無理に続けた処で良い物は出来上がらない。
「坂羅井、この曲は後日にしよう。俺のギターダビングを先にやるから、お前は帰って休んだらどうだ?」
坂羅井は普段の彼には無い程、シュンとし、
「そうさせて貰うよ…。ごめん」
と、素直にヘッドフォンを外した。
彼だってミュージシャン。
これ以上、ブースの中に缶詰めになっても、駄目な物は駄目だ、と見切りを付けたのだ。
高根沢に軽く手を振り、『お先に』と力なく帰って行った。
高根沢は『大丈夫か?』とばかりにその美しい眉を顰めたが、振り切るかのように愛用のギターを手に取るのだった。

 

 

坂羅井は地下の駐車場へとエレベーターで降りて行った。
今日はマネージャーがラジオ局の作崎に付いている為、自ら車でスタジオにやって来ていたのだ。
車に乗り込むと、漸くサングラスとトレードマークの帽子を取って、深い溜息を吐いた。
「このままじゃ駄目だ……」
小さく呟いた。
どうしたらいい?
久美子を探して、もう1度逢ってみるべきなのだろうか?
それとも、いつかまた偶然が2人を出逢わせる事に少ない望みを繋いで、今は他に没頭出来る事を見付けるべきなのだろうか?
例えば、『恋』を出来る対象を至急探す事……。
恋の対象は女性とは限らない。
夢中になれる何かを探せばいい。
「音楽以外に今更何をすれば良いと言うの…?」
坂羅井はエンジンも掛けずに呟いた。
夏が近づいている。
車の中は少し蒸し暑い。
窓をスーっと開けた時、コンコン、とその窓を叩いた者がいた。
高根沢だった。
どうやら気になって、ギターダビングに没頭する気分にはなれなかったらしい。
「少しドライヴしたい気分なんだ。乗せてくれないか?」
冷たい缶コーヒーを2本片手に持ち、掲げて見せた。
高根沢も自分の車で来ている。
いつもは余り踏み込まない坂羅井の『恋』に少しだけ踏み込む気になったのだろうか?
「少ししたら、また此処に送ってくれよ」
「いいよ。乗りな!」
坂羅井は助手席のドアを開けてやった。
「すまないな……」
高根沢は坂羅井にコーヒーを渡してから乗り込んだ。
車は夜の街へとゆっくりと滑り出す。
「坂羅井……。切なそうだな」
高根沢は窓の外を流れる景色を見ながら呟いた。
「……その女(ひと)は、恋をしては行けない女なのか?」
坂羅井は、サングラスをしていない瞳を思いっ切り瞠らせて、それから溜息と共に言葉を吐き出した。
「全く……高根沢には昔から隠し事が出来ないんだよな」
「触れないでおこうと思っていた……。だが、余りにも辛そうなんでな。今回は『お前がお前で無くなっている』からな」
坂羅井は久美子との出逢いを高根沢に語った。
「……彼女の気持ちは確かめたのか?」
「そんな訳ないよ。人妻だよ」
坂羅井の顔が少しだけ歪んだ。
「お前のそのやり場のない気持ちをどこにやったらいいのか、それを考えているのさ」
高根沢はまだ窓の外を見詰めている。
深夜の街並みは静かで、ところどころに灯った明かりが星のように美しい。
彼はそんな街並みを見やりながら、意図的に運転席の坂羅井の表情を見ないようにしているのだ。
その事は坂羅井にも解った。
(高根沢はわたしが話しやすいようにしてくれてるんだ)
内心その心遣いに感謝した。
何だか、窓から吹き込んで来る爽やかな風に吹かれている内に、何時の間にか心の中の澱が溶け出して行った気がした。
高根沢がコーヒーの缶を開けた。
「飲めよ。眼が覚めるぜ」
運転席の前にホルダーに戻してやる。
坂羅井は『ありがと』と答えて、それを左手に持った。
小さい缶だ。あっと言う間に飲み干してしまう。
「良い飲みっぷりだなー」
高根沢が初めて坂羅井の方に振り向いた。
「高根沢。ありがと♪眼が覚めた気がするよ〜ん」
高根沢は随分久々に坂羅井の口癖を聞いた気がした。
「ふっ切れたのか?」
「うん♪こうして爽快な風を受けて走っている内に、何だか頭の中でモヤモヤしていた霧が晴れたようだよ♪」
「ず……随分早いな」
高根沢の声が少し上ずっている。
この坂羅井の切り替えの早さに戸惑っているのだ。
……本気でふっ切ったのか? そう疑う気持ちがまだ強かった。
「高根沢が考える余裕をくれたんだよ。やっぱりわたしは、人妻に恋する気持ちはないよ〜ん。それが良く解ったの。出逢いがもっと早ければね。仕方が無いよ」
「坂羅井………。いいんだな、それで。本当に心のモヤモヤは晴れたんだな?」
高根沢は憂い顔のままで、今度はしっかりと坂羅井の眼を見た。
そして、彼の瞳に揺るぎない物を感じ取った。
「高根沢。お願いがあるんだけど」
坂羅井が車をレコード会社のビルに戻すルートに乗せて、アクセルを踏んだ。
「なに?」
「さっきの歌、もう1度、歌いたい」
高根沢は破顔して頷いた。
坂羅井の言葉に嘘が無い事は良く解っている。
この歌が辛くなくなったのなら、もう大丈夫だ。
「もう3時か……。作崎の番組も終わったな。俺達が戻る頃にはあいつもスタジオに来ているだろう」
高根沢はそう言うと、坂羅井、飛ばすなよ……、と口の中で呟いた。

 

 

坂羅井のヴォーカルには確かに艶が出た。
『Transitory Love』(儚い恋)と名付けられたその曲は、高根沢の静かなピアノと、作崎のアコースティックギターだけで進行する文字通り儚くも美しい曲だ。
そこに坂羅井の感情が篭もり、曲のイメージがパーッと広がって行った。
結果、高根沢が作曲時に意図した通りのメロディアスなバラードに仕上がった。
坂羅井が本当に久美子の存在を乗り越えた瞬間であった。
アルバムの1曲目に相応しい出来栄えだと、プロデューサーとしての高根沢はコントロールブースで深く頷くのだった。

 

− 終わり −