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木洩れ日、満ち溢れて…

 

先程までの雨が嘘のように、雨雲が遠去かり、ピンクや水色の紫陽花に細かい雨の雫が光って、何とも言えない美しい光景が眼の前に広がった。
昼下がりの強い陽射しが眩しい。
雨に濡れて緑も生き返ったかのように鮮やかで元気である。
6月は梅雨の季節で嫌われる事が多いが、麗華にはそうは思えなかった。
色とりどりに眼を楽しませてくれる紫陽花が、彼女にとって四季を通じて一番好きな花だと言える。
『麗しい華』と名付けられた彼女は、今、植物園に勤めている。
此処で四季折々の花を眺めて過ごす事が、小さい頃から何よりも好きだった。

 

                       *   *   *   *   *

 

麗華の手首にはうっすらと一筋の傷があった。
自らが自らを葬り去ろうとした傷……。
どうあっても2度とは消えない傷。
手首を切っても死に切れなかった彼女は、ある日踏切に飛び込もうとした。
もう自分には生きている価値など無いと思った。
愛した男に裏切られ、手酷く捨てられたのだ。
あんなに恋い焦がれ、愛し合っていたのに。
どうして彼は自分の元から去って行ったのか……。
『あの女のせいだ』
麗華が自分の友達を彼に紹介した時、彼の裏切りは始まっていた。
良くある事だが、麗華にとっては彼が全てだった。
彼に抱かれた時のあの温もり。彼の逞しく盛り上がった胸。彼の柔らかな口付け。彼の優しい愛撫。
彼の馨しき匂い………。
全てをあの女に奪われたと思うと、居ても立ってもいられなかった。
夢中で踏切を潜り抜けようとした時、突然、後ろから強い力で引き戻された。
長身の見知らぬ若い男が自分を後ろから羽交い締めにして、後方に飛び退ったのだ。
麗華は男の身体をクッションにした形で、アスファルトの上に落ちた。
悔しげに通り過ぎる電車を睨み付けた麗華は、その男を激しく責めた。
麗華は決して儚げな女性ではなく、ショートへアーが似合うキリッとした女だ。
彼女が目付きを険しくすると、結構迫力がある。
そんな女だけに麗華は却って思い込みが激しかった。
彼女は死ぬ事以外に何も考えられなくなっていたのだ。

 

 

男は体調が良くなさそうだった。
蒼白い顔を少し顰め、苦しそうに息をしていた。
その男はハンカチで然りげなく唇を拭いた。
そのハンカチに血が滲んでいた事に、興奮していた麗華は少しも気付かなかった。
「なぜ死なせてくれないの?!」
と怒りと落胆に任せて抗議した麗華に向かって、彼は
「どんな生命も重さは同じだ……無駄な生命なんてひとつも無い」
切実な声でそう彼女に言ったのである。
麗華は知らないが、彼は死を目前にしていた。
だから、麗華が自らの生命を断とうとしたその行為が許せなかったのだ。
それでもなお、理解しない麗華の左手首を彼が掴んだ。
振り解こうとしても強い男の力には敵わない。
彼女の手首の傷を目ざとく見付けていた彼は、
「そんなに死にたいのか?」
と悲壮な表情を見せた。
「此処にあと何日も生きられない人間が居ると言うのに……世の中は不条理な物だな……死にたい人間を生きたい人間が助けるなんて、な……」
自嘲的にそう呟いた彼の呼吸はかなり苦しそうだった。
言葉も途切れがちになっている。
麗華は彼の言葉で、初めて端正なその男の顔を見た。
顔色は悪かったが、宝塚の男役のように綺麗な顔をしていた。
まさに、容姿端麗とは彼の事である。
男は漸く彼女の手首を解放してくれた。
「生きてろよ……何があったのかは知らないが、いつか絶対に生きていて良かったと思う日が来るから……あの時、あんなつまらない事で死ななくて良かったと絶対に思えるから……」
彼は肩で息をしながら、言い終えると麗華の前に崩れ落ちたのである。
唇から血を喀きながら……。
その鮮やか過ぎる『赤』は、ずっと麗華の記憶の奥底に残った。

 

 

あれから2年が過ぎた。
麗華は彼の名前も連絡先も、正式には聞かずに別れたのだが、あの後、好きだった植物園の職員と言う職を得て、花達に囲まれた生活を送っている内に、段々と心の傷が癒えて来たのを感じていた。
彼の職業が刑事である、と言うのはあの時、知った。
そして後輩の刑事から『風見先輩』と呼ばれていたのも覚えている。
麗華は彼に感謝の言葉を伝えたくて、所轄の警察署を訪ねた。
無性に逢いたかった。
あの光景を目の当たりにしてもなお、生きていると信じていた。
生きていて欲しかった。
そして、今の自分を彼に見て欲しかった。
しかし、彼の運命はもはや変えられなかったようだ。
彼の死は、あの日から数日後の事であったと、そこで聞いた。
麗華は放心状態で、その事を教えてくれた警察官への礼もそこそこにその場を辞した。
もしかしたら、彼女は彼に恋していたのかもしれない。
雨が降って来たのにも構わず、フラフラと歩いた。
気が付いたら、休園日の植物園の事務所にひとり居た。
窓からしとしとと降り続ける雨を見詰め、あの時の彼−−『風見祐介』と言う名前だと、彼女に応対した警察官が教えてくれた−−を思った。
そうだ、あの人の言った事は本当だった。
今思えば、何て自分は馬鹿だったのだろう。
『あいつ』と『あの女』の為に、何で私が生命を断たなければならないのか……?
時が麗華の心を癒してくれたのだ。
彼が言った通りになった。
時間は何よりもの心の薬だった……

 

 

窓の下でずぶ濡れの仔猫がにゃあ、と鳴いた。
生まれて間もないふさふさとした美しい茶色の毛を持つ、丸い身体付きをした仔猫だ。
小さい身体につぶらな眼が一際目立ち、本当に愛らしい。
首輪は無く、飼い猫で無い事は明白だった。
麗華は慌てて仔猫を中に入れ、タオルで拭いてやる。
仔猫はお腹を空かせている様子だったが、麗華は今日は仕事で来た訳ではないので、何も持っては居なかった。
麗華は仔猫を抱き、事務所の置き傘を片手に園内の自動販売機に行く事にした。
そこで牛乳の小さいパックが売られているのを思い出したからだ。
仔猫を置いて行くと、雨の中をどこかに行ってしまうそうな気がして、麗華は放っては置けなかった。
仔猫は大人しく、麗華に抱かれている。
急いで事務所に戻ると、早速紙皿に少しずつミルクを垂らしてやった。
仔猫は貪るようにそれをぺろぺろ舐めた。
その仕草が何とも愛らしくて、麗華はこの子を自宅に連れ帰る事にもう決めていた。
マンションではペットを飼う事を禁止していたけれど、この子の為に引っ越ししても構わないとさえ、思った。
仔猫の『生命』の息吹を今、麗華は強く感じ取っていた。
『どんな生命にもその重さに変わりは無い……』
あの死を目前にした若い刑事さんが言った事は、何よりも真実。
麗華が改めて悟ったのはこの時であった。
あの人は27歳で逝ったと聞いた。
麗華と同じ年の生まれだったのだ。
その若さで悟らずに居られなかった彼の事を、麗華は哀しく思った。
ふっと瞳を閉じて、1度しか逢わなかった彼の面影を思い浮かべながら、麗華は心からその冥福を祈るのだった。

 

 

雨が上がり、陽が射して来た。
麗華は満腹になって、お昼寝を始めてしまった仔猫を片手に抱いて、事務所を出た。
手入れの行き届いている植物園の園内は、今、仔猫の生命のようにキラキラと輝き始めた。
木洩れ日の中、麗華は深く深く深呼吸した。
今日はこれから暑くなりそうだ。
よし、今からこの子の為の買い物をしよう!
麗華は軽い足取りで街へと飛び出して行った。
先程、此処に来た時のちょっとした『風見祐介』へのノスタルジックな気持ちは消え、随分と前向きな気分になっていた。
それはこの仔猫と出逢ったお陰である。
仔猫は牡だった。
「あなたの名前は『ゆうすけ』に決めた!」
ひとりと一匹の『ゆうすけ』に貰った生命よ。
私のたったひとつの生命だもの。
堂々と生き抜いて見せるわ。
生きている価値の無い生命なんて、この世にひとつも無いのよ。
麗華は心の中で呟いた。
太陽と緑の眩しい午後の事だった。

 

− 終わり −