道があり、私はただ突き進むのみ…

 

※この作品は磯宮様のHP『夢★始末記』15万hitのお祝いとして磯宮様に捧げます

 

 

お磯と出逢ったのは、梅雨の走りの頃。夕暮れ時だった。
迂闊にも傘を持たずに用足しに出た私が雨宿りに借りた軒先で、「あら、雨……」と呟いて雨戸を閉めようとした彼女と眼が合った。
「すみません。しばし軒先を借用します」
私は律儀にも挨拶をした。
お磯は私よりも2つ3つ年上のようだったが、笑うと笑窪が出来た。
髪をお滑らかしに結いなおせば、平安絵巻に出て来そうな美しい娘だ。
「お気になさらずに。宜しかったら中でお茶でもいかがですか?寝たきりの祖母が退屈しておりますから、喜びますわ」
女性の家に軽はずみに上がりこんで良い物かと私は二の足を踏んだのだが、彼女は一向に構わずと言った風情で、番傘を持ってわざわざ往来に出て来た。
「さ、どうぞ。雨脚が酷くなって来ましたわ。そこにいらしては濡れてしまいます」
きっぱりと言い切られ、私は大人しくお磯に従う事にした。
お磯は躾の行き届いた武家娘だった。このような娘がなぜ私を家に通したのだろう。
その理由は彼女の祖母と言う人に逢った時、解った。
「おおお〜和正、帰って来たのかい?」
もう長い事、寝たきりなのだろう。老いた枯れ木のような細い腕を布団から突き出し、涙をポロポロと零し始めた。
私はどうしたら良いのか解らない。
この老女の知己、いや恐らく親族である筈のその人になり切って上げるべきなのか?
私はお磯、いや、まだこの時点では名も聞いていない彼女を振り返り、その顔色を読み取ろうとした。
しかし、彼女はあっさりと祖母の期待を裏切った。
「違いますよ。おばあ様。お義兄様に似ていらっしゃいますけど、通りすがりのお方です。あら、嫌だ。
 お名前を承っておりませんでしたわ。私はお磯と申します。失礼ですがお武家様は?」
「私は沖田総司と申します。試衛館と言う道場におります」
「試衛館……?ああ、あの大きな柿木がある道場ですね。いつも元気な掛け声が外の通りまで聞こえておりますわ」
お磯はにっこりと笑うと、『お茶を入れて参ります』と言って下がった。
その間も彼女の祖母は、私の顔をじっと見詰め、ニコニコしている。
加減は悪くなさそうだ。穏やかな柔和な顔をしている。
私は老女の耳元で話し掛けてみた。
「おばあさん、お加減はどうですか?」
「あんたが外での話を面白おかしく話してくれれば、加減も大分良くなるかのう?」
お磯と言う娘が私を呼び入れた理由は多分こっちだ、と私は解ったような気がした。
この退屈な老女は、新しい話に飢えている。
まだ頭はしっかりしているようだ。きっといい加減な話では許してくれまい。
私は試衛館の人々の事や、出稽古の時の出来事など、出来るだけ解りやすくゆっくりと話して上げる事にした。
お磯が茶と茶菓子を盆に乗せて戻って来た。
私にとっては何の変哲も無い話でも、老女には面白かった様子だ。
私の話を聞いてクックッ…と笑っている老女を見て、彼女は破顔した。
「まあ…沖田さま。おばあ様が笑っていらっしゃるなんて」
老女は幼童のように眼を輝かせて私に話の続きを促すのだった。

 

 

「すみません。すっかり長居してしまって……、お父上に怒鳴り付けられない内に退散します」
雨がとうに上がった夕暮れ時、私はやっとこの家を辞去した。老女がなかなか私を解放してくれなかったのだ。
私は結局老女が疲れて眠ってしまうまで、彼女達に付き合った。
「おばあ様に沖田様を占領されてしまいましたわ」
見送りに出て来たお磯が言った。おもちゃを取られた子供のような表情だった。
私は別れ際、気になっていた事を切り出した。なぜ、通りすがりの私に声を掛けたのかと。
するとお磯は『貴方に爽やかな風を感じたからかしら?』と答えた。
何だかはぐらかされたようだが、決して悪い気はしなかった。
「また近い内にお邪魔します。今日は急な事で手土産もありませんでしたから」
「まあ、沖田様、本当ですね?」
お磯の眼が輝いた。可愛い人だ。感情がそのまま顔に出て、表情がくるくる変わる。
「本当ですよ」
私はお磯に軽く頭を下げ、彼女に背を向けた。
何となくだが、ずっとお磯の視線をその背中に感じていた。
急にドキドキして来た。お磯は美しい女だ。
聞きそびれたが、お磯はあの家の娘ではなく、妻女なのかもしれない。
あれだけの美貌を放って置く者があるものか。それも躾の行き届いた武家娘だ。
「総司っ!」
いきなり背後から呼ばれて私は迂闊にもビクッとした表情をしてしまった。
「さっきから呼んでいたんだぞ。何ボーっとしていやがる?」
背中に薬箱と撃剣の道具を背負った役者のような男が私を見てからかうように笑っている。
そう、土方さんだ。
「すみません。迂闊でした。土方さんが刺客なら、私は既に骸と化していますね。でも殺気は無かった」
「まあ、いいさ。あんなに綺麗な女と一緒にいたなら、赤ん坊のように無垢なお前でも熱を上げちまうのも道理さ」
土方さんはカラカラと笑った。
「何を言っているんです?私はただ、雨宿りに……」
「雨はとうの昔に上がっている。それにあの娘のお前を見る眼付き。あれァ惚れた男を見送る眼だな」
「な…何を!」
私はカーっと頬が熱くなるのを感じた。お磯とは今日逢ったばかりではないか。
私はそれを言い、彼女はあの家の妻女なのかもしれない、と話した。
「馬鹿野郎!何を見ていやがるっ!髷の結い方を見りゃあ、あれは嫁いでいない女だってぇのは、一目瞭然だろうが!」
土方さんは道場に帰る道々、私の事を小突いた。まるで子供扱いだ。
そうか……お婆さんの看病に月日を費やし、婚期を逸してしまったのだろうか?
「好きなんだろう?俺だったら物にするぜ、あれだけの器量良しだからな」
「私は土方さんじゃありませんからね。それに、あの人のお兄さんに私は似ているそうですよ。だから、私を見ていたのですよ」
もう私はこの話題を切り上げたかった。色恋の話になると顔から火が出そうな思いがする。
土方さんはそんな私を『ねんねちゃん』だと言ってからかっては、いつも喜んでいる。
その土方さんの顔が急に引き締まった。
「今日これから近藤さんから重大な話があるんだ。どうやら上洛する事になるようだ」
「え?京にですか?」
寝耳に水だった。話には聞いた事がある。どこか雅やかな印象がある場所だ。
だが、現実には不逞浪士が結集しているらしいと言う不穏な噂がある。
それ位の事は、剣の道以外に興味の無い私でも、耳にしていた。
私はそれを言った。
「ああ、そいつらを取り締まるらしい。だから、あの女とももう逢えなくなるぞ。今の内に思い出を作っておくんだな」
土方さんはそれ以上は口を噤んだ。

 

 

その夜、近藤先生から皆に道場を畳んで浪士組に志願すると言う話があった。
私は即座に近藤先生と同行する事を決めていた。
どこまでも一緒に行くのだと言う気持ちもあったが、私は常日頃より自分の剣が世間でどの位通用するのかと言う事を知りたいと願っていた。
そこに道があるのだ。私は真っ直ぐに突き進む事しか知らない。
そして、そうしたいと強く願った。
世間知らずの私がついに剣士として羽ばたけるチャンスだ。
私はこのままこの試衛館道場を継いで終わろうとは思っていなかった。
近藤先生には申し訳ないけれど、それは本当の気持ちだった。
上手く説明出来ないが野心とは違う。
剣士として生きたかった。何かがそう私を突き動かしていた。

 

 

その後、上洛の話は俄かに本格化し、バタバタと日にちだけが過ぎて行った。
お磯の事を気に掛けてはいたが、あの家を訪問する時間が取れなかったのだ。
せめて出発までに約束を果たしたい。
私は手土産を用意し、手紙を認めた。自分で届けられなかった場合は、道場の小者に駄賃を与えて届けて貰う事にした。
土方さんにそそのかされた訳ではなかったが、私はお磯に惹かれ始めている自分に気付いていた。
思い出を作っておけ。土方さんはそう私に言ったが、私にはやはりそれは出来ない。
そんな物を作ってしまえば、私は前に進めなくなるだろう。
お磯と所帯を持てない事が解っている以上、私にはお磯と思い出を作る資格などは無いし、そうしては行けないような気がする。
それに思い出ならあるではないか。
あの日の雨宿りを切っ掛けに、一時を旨い茶と共に彼女と過ごした。
私にはそれで充分だった。
約束は果たせなかったけれど、私にはあのたった1度の逢瀬が全てだ。それでいい。
ついに出発の時が来て、見送りに出て来た日野の姉とたまさかの別れを惜しんだ。
お磯の所へは使いの者を出した。
そして、私達は京へと出立した。

 

 

お磯 殿

約束を果たせなかった事、許されたい。貴殿とはもう一度逢うて行きたかったが、急な事で時間が許さない。貴殿とお婆殿と一緒に食そうと思った和菓子を小者に持たせるから、味わって下さい。先日の旨いお茶と楽しい一時のお礼には足りぬかも知れないが、決して約束を忘れた訳ではないと言う証拠です。
私は慌ただしく京へと上りますが、貴殿とはたった一度の巡り合いとは思えない何かがあった。どうか息災に。そして幸せにおなりなさい。
私は剣の道に生きます。それが私の前にある道ですから。                                

沖田 総司

 

*      *      *      *      *

 

 

総司の文は短いが心が込められていた。候文ではなく、女性に読みやすいようにと配慮をして、口語体で書かれている。
お磯は読み終わると、噛み締めるように呟いた。
「いやね。宗次郎くん。私は日野で隣に住んでいた実里よ。とうとう気が付かなかったわね。10の時にこの家に貰われて来たのよ。ずっと好きだったのに……」
変わってないわね。宗次郎君。あの頃のまま純粋で澄んだをして……。
お磯はその夜、長い間拒んでいた嫁入りの話を承諾したと言う。
大層美しい花嫁だったと後々まで江戸中で話題に上っていたそうである。 

 

− 終わり −