魅惑の音色は2度鳴らず

 

※この小説は15000hitをGETされたきたこ@香野様にリクエストをお願いして
書かせて戴きました。きたこ@香野様、どうもありがとうございました!!

 

 

ローリエは不幸にも生まれつき眼が不自由だった。
不幸だと思うのは外野の人間のエゴで、生まれて此の方ずっとその状態で過ごして来た彼に取っては、それは至極普通の事なのである。
眼が不自由な分、それを補うかのように彼の聴覚は突出して発達していた。
そして、このローリエの繊細でしなやかな指先が鍵盤の上を滑る時、その魅惑の音色に嘆息し、うっとりと我を忘れた。
人々の心を揺さぶる不世出のピアニストが世界に知られるようになったのは、彼が世を去ってからの事になる。

 

 

彼はその眼のお陰で健常者と同じようには働かせて貰えなかった。
本当は自宅で使っているような音声で文字を読み上げてくれる特殊なパソコンなら、彼は十二分に使いこなす事が出来る。
そう言った勘は並外れて鋭い男なのに、なかなか使ってくれる職場も無く、彼は仕方なく場末のバーで日雇いのような形でピアノを弾き、日々の糧として来た。
ローリエはそれでも、ピアノを弾ける場がある事を喜んでいた。
自宅にあるのは、貧乏な両親が彼の為に無理をして買ってくれた中古のアップライト型ピアノだ。
それも調律師を呼ぶ事が出来ない程、今の生活は苦しく、絶対音感を持つ彼には自宅のピアノを弾く事は、恐怖にさえなっている。
それに引き換え、このバーのグランドピアノは手入れも良く、素晴らしい音を奏でてくれる。
ローリエはそう思っているが、実はそう大したピアノでは無い。
彼が弾くからこそ、その暖かく心地良い音色が出せるのだ。
他の者が弾いてもそうはならなかった。
ローリエのショパンは絶品である。1度耳にした者は誰でもそう感想を語らいあった。
彼は譜面を読んだ訳では無い。当然ショパンの意図する事を譜面から読み取る事は出来ない。
彼のピアノは独学だ。誰かが横にいて、譜面の記述を読んでくれた訳では無かった。
自分の耳で聞き、心にメモをして積み上げて来た。
その上で自分の世界を構築して来たのだ。
だから、細かく言えば、ショパンの譜面とは違う筈だ。
それでも、著名なピアニストが譜面通りにカッチリと弾いた『雨だれ』よりも、ローリエのそれの方が雨の情景を心に浮かび上がらせ、観客の胸に迫る物があった。
そんな彼が間もなく二十歳の誕生日を迎えようと言うある日、バーの客の中に彼をショパンコンクールへ推すと言う者が現われた。
ローリエはピアノを弾けて、食べる事が出来るだけでも充分幸せを感じていたし、有名になろうとか、そう言った欲は全く持ち合わせていなかった。
しかし、もし入賞すれば、長い間貧乏暮らしをしている両親に恩返しが出来る、と聞かされた時、初めてローリエの心は動いた。
眼が見えない自分の為に、家を改造したり、健常者と同じように学校に通わせたくれた愛しい両親。
自分には決して言わないけれど、人知れず多くの苦労をして来た事だろう。
コンクールは彼が二十歳になるその日だと言う。
特別枠でエントリー出来るようにその客が働き掛けてくれた。
招待は明かさなかったが、日本人で、名前は『香野』と名乗った。
ほっそりとした妙齢の女性である。彼女は此処に10日間通い詰めて、自分の耳が確かである事を確認した。
特別枠を何とか出来る処を見ると、コンクールの関係者でなかなかの実力の持ち主なのだろう。
彼女はローリエと共に彼の自宅へ出向き、両親にも話を付けてくれた。
彼の両親は、ローリエが乗り気であるなら、と手放しで喜んでくれた。
決して金や名声などを望んでいるのではなく、この先自分達の庇護の下からいつか離れて行く息子を暖かく見守って行きたい。
そう言った考えを持っている両親だった。

 

 

コンクールは課題曲3曲と、自由曲2曲の計5曲を演奏して採点される。
他の出場者達は、厳しい予選を潜り抜けて来た者ばかりだ。
ローリエは香野女史に見込まれての特別枠出場であった。予選の遥か前から準備をしていた彼らとは違う。
早速、香野がスタジオを借りてくれ、課題曲のお浚いが始まった。
時間の許す限り、いろいろな弾き手が演奏するレコードを聴きまくり、既に頭に入っているショパンをもう1度頭に叩き込んだ。
香野は、『絶対に入賞は狙える筈』だとローリエの演奏を絶賛した。
ローリエはそれでも決して天狗にはならず、とにかく普段の自分を出せれば満足だと思っていた。
マイペースを心掛ければいい。
いきなりコンクールに出て欲を出した処で失敗するのがオチだ。
周りの人間の心配をよそに、ローリエはあくまでもマイペースで、平常心を忘れなかった。
香野は、それでいいと思っていた。
彼が普段通りの力を出せさえすれば、充分だった。
彼女は自分自身がピアノを学んでいたが、演奏家としては親指に重度の腱鞘炎を起こした為に挫折。
その後は後進を育てる為に身を砕いて来た。
この異国の地に骨を埋める覚悟も出来ている。
ローリエは稀代のピアニストだ。彼女にはその彼の才能を発掘し、育てると言う野心が芽生えていた。
ショートヘアが良く似合うキリッとした彼女は、男性顔負けの仕事をこなしたかった。
特に密かに恋心を燃やしている男性に対して、かなりの対抗意識を持っている。
彼はこのコンクールの影の実力者と言われている男で、主催者の右腕と呼ばれていた。
この対抗意識は彼に対する憧憬の裏返しなのだが、誤解を受けやすい。
恐らく彼・エドワードには、彼女の真意は伝わっていないだろう。
香野は自分の気持ちを伝える事に不器用だった。その分、音の良し悪しを感性で受け止める事には、長けていた。
彼女の感性のベクトルは全て音楽に向かっていると言っていい。
全身の感性を耳に集めて聴いたローリエの生演奏には心を打たれた。
この上も無い感情の揺さ振りを受け、まるで1つの物語を見せ付けられたような気がした。
心地良く心の襞にスーッと入り込んで来たローリエの魅惑の音色。
この才能をこんな所に埋もれさせて置くなんて………香野女史は彼を自分の手で世に出してみたくなったのだ。
そして、自覚は無かったが、その事でエドワードに自分の手腕を認めて貰いたいと、彼女は強く思っていた。

 

 

コンクール当日がやって来た。ローリエの二十歳の誕生日。
きっと有意義な1日になるに違いない。ローリエにとっても、香野にとっても。
香野は自ら彼の手を取って、舞台のピアノの位置まで導いた。
盲目のピアニストの登場に、客席の招待客からは惜しみない拍手が送られた。
『演奏を聴いた後はこんな物じゃないわよ』 香野は密かにローリエの耳元で囁いて、舞台の袖へと下がった。
まずは課題曲の3曲を奏でる。そして一旦下がって順番を待ち、自由曲2曲を演奏する段取りになっていた。
いつものバーとは空気が全く違った。張り詰めている。
視力を持たないローリエには、却ってそれが感覚として伝わって来た。
しかし、幕は切って落とされたのだ。
ローリエは大きく息を吸って心を落ち着かせると、最初の音を手探りで探し出してゆっくりと鍵盤の上で両手を自在に操り始めた。
曲調の変化に従って、華麗に鍵盤の上を滑り出す10本の指。
演奏を始めれば、いつもの自分。もう観客の眼を意識する事は無い。
彼の音色を聴いて観客席は1度どよめいた。その後、すぐに静かになり、息を呑んで聴いている。
新鮮な驚きを覚えた観客は、あっと言う間に3曲を聴き終えると、惜しみない盛大な拍手をローリエに捧げた。
後半の自由曲の演奏でも、客席からの拍手喝采を独り占めしたローリエは、殆どの観客に優勝を浚うのは彼だろうと言う印象を与えていた。
盲目の貴公子・ローリエの演奏に酔い痴れた観客達は興奮冷め遣らぬ様子である。
優勝者にはもう1度、特別な1曲を演奏する機会が与えられている。
ローリエはもしその機会が自分に与えられるのなら、今日演奏した中で一番自分らしく弾けた『雨だれ』を弾く事にしていた。
観客の心の中に雨の情景を見せる程の彼の『雨だれ』は、ショパンが現世に生きていれば、きっと感動したに違いない。
こう言う解釈の仕方もあったんだ……と言う新しい発見を、今日の観客達は共有した。
しかし、大方の予想は裏切られ、ローリエは入賞者の中に名を連ねる事は出来なかった。
譜面とは違う演奏が随所に見られた、と言うのがその理由だった。
頭の固い審査員達が、最初から拒否反応を起こしてしまったのだ。
良く聴いていれば、彼の演奏に心を揺さ振られたに違いないのだが。
譜面通りに弾く既出のピアニストより、ローリエの演奏の方がどれだけ魅力的だったかは、此処の観客が自身の耳で確認している。
ブーイングが起こった。クラシックのコンテストで、こんな事は珍しい事だ。
いや、前代未聞と言えよう。
この結末に一番力を落としていた香野は随分と力付けられた。
生で彼の音を聴いたこの人達は、解ってくれている。
この事はきっと明日の新聞で話題になるだろう。
ローリエは入賞こそ出来なかったが、観客の心を打つ演奏をした事は一躍有名になるに違いない。
また次のコンテストへの誘いもある筈だ。
それまでに、彼の演奏を少しでも多くの人に聴かせる機会を作って、きっとローリエを世界的なピアニストに育ててみせる。
自分が果たせなかった夢を、彼女はローリエに委ねた。

 

 

しかし、悲劇はコンクールの帰りに起こった。
久し振りの遠出に疲れたローリエは、1人になった帰り道、自動車事故に遭って呆気なく若い生命を落とした。
車の音に気付かなかったのだ。
先に帰っていた両親が大きな音を訝しがって飛び出して来た時には既にローリエは事切れていたと言う。
彼の悲劇的な突然の死はコンクールでの演奏を絶賛した記事と共に報じられた。
たった1度だけ大きな舞台に立ち、その日に生命を落としたローリエは、そして伝説になった。
20歳の若い才能は失われ、惜しい事に2度とその魅惑の音色を聴く事は叶わない。

 

− 終わり −