風の名前

 

  ※この作品は75000hitのそよこ様から戴いたリクエストによる物です

 

 

あの頃は自分が一番輝いていた頃だったね。
風がそよと耳元で囁いて行く。
「そう……友達も沢山いて、好きな事をして生きていた。幸せだったわ」
爽子は風に向かって呟いた。
『そうこ』……爽やかな風のように育って欲しい、と両親が願って付けてくれた宝物のような名前。
両親は『爽子』か『そよこ』で悩んだようだが、どちらにしても『風の名前』である事には違いが無かった。
爽子は文章を書くのが好きだった。
以前1人暮らしをしていた頃、考える時間はいくらでもあった。
苦しんで苦しんで自分のキャラクターを創造し、来る日も来る日も想像した。
紙とペンがあれば、後は空白に情熱を書き入れて行く作業。
苦しい事も楽しさに変わった。
興が乗ると睡眠時間まで削って書き続けた。
楽しい仕事だった。
彼女はOLをしていたが、殆ど残業になる事が無かったので、自由気ままに時間を使った。
好きなCDを聴きながら、自分だけの世界を紙の中に紡ぎ出す。
仲間もいた。
お互いに自作を見せ合って、批評し合う。
それぞれがそれぞれのファンになり、時には内輪でしか通用しない戯れもした。
蝉時雨の夏、爽子の1人暮らしの部屋に合宿と称して泊り込み、合作のような物を作ろうとした事もある。
そんな楽しかった日々も終わりを告げる時が来た。
物事には必ず終末がある。永遠は有り得ない………
その事は避けられない事なのだ。

 

 

キッカケは爽子が結婚して、ちょっと離れた場所に引越した事だ。
爽子の1人暮らしの家と言う拠り所が無くなって、逢う機会が少なくなってしまった。
やがて時は過ぎ、それぞれが家庭を持ち、書く事を止めてしまった者もいた。
爽子自身、仕事と家事の両立に苦しみ、何かを書くなどと言う時間も取れなくなってしまった。
何かが違うと思い始めていた。
女同士の友人の場合、それぞれの嫁ぎ先の事情などもあり、段々疎遠になって行く事が多いとは聞いていた。
でも、自分達は大丈夫だと言い合っていたのに。
あの頃の事を一番輝いていたと言えるのは、今の自分にその喪失感があるからだ。
このままでは駄目だ。
私は押し潰されてしまう。
そう思った。
そんな頃、爽子はインターネットと出逢った。
家にパソコンが導入されたのだ。
家事を何とかやり繰りすると、彼女はネットの海を自由に泳ぎ回った。
自分と同じような趣味を持つ人物が運営するホームページに出入りするようになると、段々と自分のサイトを作りたいと思うようになる。
自分の作品を読んで貰いたい。
もっといろいろな人と語り合いたい。
丁度その頃、彼女は一時的に仕事を辞める事になった。
数ヶ月間の専業主婦生活だ。
爽子は、今しかない、と一念発起した。
それからの彼女の努力は並大抵の物では無かった。
精力的に作品を書き綴っては、自分のホームページにそれを掲載し、ついにサイトをオープンさせたのである。

 

 

彼女のサイトはデザインのセンスも良かったので、知らぬ間にホームページを見たと言う人からコンタクトが来て、原稿の依頼が入ったりし始めた。
少しずつ彼女の周辺は動き始めている。
最初は余りいい顔をしなかった夫も応援してくれるようになった。
「あの時、仕事をしていたら、サイトオープンは出来なかったわね……」
風の中で爽子は感慨深く呟く。
彼女の長く柔らかな髪が、優しい風に靡かれて行く。
「私はあの頃よりも今、輝きたいわ。今こそが我が人生の最もいい時期。死ぬまで永遠にそう思って生きていたい。永遠なんてこの世には無い…なんて言わないでね。貪欲と呼ばれたって構わないわ」
今、爽子は1人で此処に立っている。
涼しげな風が彼女の頬を撫でている。
雲の上のような幻想的な世界が周囲に広がっていた。
遠くには虹も見え、彼女の好きな花ばかりが季節に関わり無く咲き乱れている。
此処は彼女の家。
ホームページの中なのかも知れない。
この花達は爽子が壁紙として飾った数々の花なのだ。
心地良い風が彼女の心を和ませた。
過去の良き時代を振り返って懐かしんで見ても、何時の間にか『今』が一番だと言う考えに至る。
「何だ…私って、結構幸せなんじゃない」
爽子は風の中で微笑った。
だって、あれからいろんな経験をした私は、絶対にあの頃よりも良い物を書いている筈なのだから………

 

− 終わり −