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穏やかな風を受けて

 

 

華やかなライトを浴びてステージを下りた時、ひどく疲れを覚えた。
精神的な疲れでは無い事は自分自身が一番良く知っている。
この処、レコーディングのスケジュールが立て込み過ぎていた。
明日から3日間だけオフが入る予定だった。
「高根沢、でぇ丈夫か?蒼い顔してるぜぃ」
バンド仲間の作崎が息を弾ませながら汗だくの顔で訊いて来た。
そうだな、さぞかし蒼い顔をしているに違いない。自分でも解る。
バックステージで椅子に座り込むとなかなか立ち上がれなくなってしまった。
まずはマネージャーから渡されたスポーツドリンクを手にする。
一口含んで眼を閉じる。
次の瞬間、身体がグラリと揺れるのを感じた。
床に崩れ落ちたのだ。
自分でその意識はあった。だが、周りのざわめきは聴こえているのに、それに答える事が出来ない。
「誰か!手を貸して。そこのソファーに寝かせるから」
坂羅井の声が聴こえ、自分の身体がそっと持ち上げられたのが解った。
彼はミュージシャンの癖に医療の心得がある。
「高根沢、安心して。一時的にショック症状が出て、喋れなくなっているだけだから」
坂羅井が俺の脈を計った後、耳元で囁いた。
大声を出して、俺に負担を掛けないように配慮してくれているらしい。
「みんなも心配ないから、撤去作業に戻って。意識はちゃんとしてるから。ちょっと休めば大丈夫」
坂羅井の言葉に皆、安心して、それぞれの持ち場に戻って行った。
明日はこの会場で別のアーティストのコンサートがある。
今日中にセットを撤去しなければならない。
いつもの慌ただしさが戻ったが、バックステージは立入禁止になった。
額に冷たいタオルが乗せられた。
坂羅井だ。どうやら俺は発熱していたらしい。
「過労だね。風邪の症状では無さそうだよ。でも、このオフの間は曲作りとかしちゃ駄目だよ〜ん」
「棚の上、ルリはまだ?」
作崎がマネージャーの棚の上に訊いているのが聴こえた。
「今、呼びにやっています」
そうだ、今日は都心でのコンサートだから、妻の瑠璃子が見に来ていた筈だった。
最近は、俺のヘアメイクの担当を下りて、あるファッション雑誌の専属となっている。
また心配を掛けてしまうな……。
そんな事を思っている間に瑠璃子と、妹の絵理が駆け付けて来た。
仲の良い義理の姉妹だ。
いつもスケジュールさえ合えば、こうして一緒にコンサートを見に来る。
「兄さん、また無理をしたんでしょう?!」
絵理の呆れ果てたかのような声が耳に届いた。
「すみません。皆さん、ご心配をお掛けして」
これも絵理だ。瑠璃子は黙って、俺の手を取った。
暖かいその手が俺の手を優しく握り締める。
その瞬間、俺の身体に再び血が通い始めたような感覚が起こった。
突然、身体が思い通りになって、俺は起き上がった。その拍子に額から濡れタオルが滑り落ちた。
「すまない、みんな。もう、大丈夫だ……」
言葉も発する事が出来た。
「ルリの癒し効果は大きいな。驚いたぜい」
作崎が呟いた。

 

 

結局、そのまま自宅に戻る事が出来た俺は、翌朝まで死んだように眠った。
目覚めは悪く無かった。
枕元にそっと座っていた瑠璃子が安堵した表情を俺に見せた。
「熱、下がったみたいね」
瑠璃子は自分の額を俺の額に当てて、そう言った。
「朝食、出来ているけど、食欲はある?昨日の夜は何も食べていないから、お腹が減ったでしょ?」
こうして、家で瑠璃子と一緒にのんびりした朝を迎えるなんて、もしかしたら初めてではないのだろうか?
夜と昼が逆転している俺の生活。
擦れ違いばかりの夫婦だ。
瑠璃子はそれを寛容にも許してくれている。
元々コンサートのスタッフとしても付いていてくれた彼女だから、その辺の事は百も承知でいる筈だ。
「食べてみようかな?折角作ってくれたんだからな」
俺はそう言って、ベッドから起き上がった。
少しだけ頭痛がしたが、瑠璃子が作ってくれた暖かい朝食の方が今の俺にはベッドの温もりよりもずっと魅力的だった。
この3日間の休みは、彼女との時間を大切にしようと思った。
彼女の雑誌社での仕事も丁度無い。どこかでゆっくり2人の時間を過ごそう。
「内緒にしていたんだけど、これ…」
食卓で瑠璃子があるチケットを2枚、俺に差し出した。
箱根の温泉街にあるホテルの2泊3日の宿泊券だった。
「どうしたんだ、これ?」
俺は彼女が作った味噌汁を飲みながら、上目遣いで訊ねる。
「昨日、絵理さんがくれたのよ。明日が私の誕生日だから、って」
「あいつ、味な事をするんだな」
俺は正直、感心した。
勿論、俺だって明日が瑠璃子の誕生日だと言う事を忘れていた訳じゃない。
忙しいスケジュールの合間を見て、既にある物を用意していた。
実はレストランの予約もしていたのだが……仕方が無い、そっとキャンセルするとしよう。
「行けそうかしら?車は私が運転するつもりだけど、移動が身体にこたえるようなら、止めましょう」
「大丈夫さ。温泉に浸かってゆっくりするか」
「お部屋に露天風呂が付いているそうよ。誰にも気遣いは要らないわ」
「それは有難いな」
正直、国内旅行には余り行きたくは無かった。
どこででも、ファンに囲まれてしまうからだ。
有難い事ではあるのだけれど、プライベートな時には出来ればそっとしておいて欲しい。
瑠璃子と一緒なら尚更である。

 

 

食事を済ますと、簡単な旅支度を始めた。
2泊3日の旅だ。コンサートツアーの旅に比べたらかなりの軽装だ。
季節もいい。ゴールデンウィークも終わり、青葉が眼に眩しい季節である。
最低限の荷作りを終えて、瑠璃子の運転で車を出した。
高速道路を突っ走る。瑠璃子がこんなにスピードを出すとは思わなかった。
全開にした窓から注ぎ込む風が心地好い。
全身から疲れが溶け出して空気中に分散して行くような爽快な気分だった。
「疲れたらいつでも運転を変わるから、黙っていないで言えよ」
俺がそう言うと、瑠璃子は笑って、
「駄目よ」
と答えた。
「この3連休で少しでも、疲れを癒して欲しいと思っているんだから」
「大丈夫さ。瑠璃子との時間が俺を癒してくれるんだ」
海辺を見下ろせる場所に、緊急避難用の駐車場所がある。
一時的にそこに停車して、車の中から穏やかな海面を眺める。
「お茶でも飲む?」
瑠璃子がダッシュボードからペットボトルを取り出した。
「熱っ!!」
太陽の日差しがペットボトルを熱していた。
「おいおい、火傷をするなよ」
荷物の中からハンドタオルを出して、それを包んでやる。
「大丈夫、大丈夫」
ちょっと涙目になりながら、そう言う瑠璃子がとても愛おしかった。
「…………………………」
そのうっすら浮かんだ涙をふと、唇を当てて吸ってみた。
そのまま瑠璃子の柔らかな唇に自分の唇を重ねる。
その唇は優しく俺を迎えてくれた。
貪るように求め合い、お互いに酔った。
抱き締めた瑠璃子の身体は柔らかく暖かい。
故郷に戻ったような、そんな優しさが俺の心に流れ込む。
「あなたといると……何だろう、心がホッとする」
瑠璃子が呟いた。
俺も同じさ。そう耳元に囁こうとして、瑠璃子の髪を掻き上げた。
が、瑠璃子の唇でそれを封じられた。
いいさ……このまま時間が止まっても。
誰よりも君を愛している………。

 

 

夜まで掛かって、車で走り回った。
漸くホテルにチェックインして、まずは食事にする事にした。
サービスエリアで軽く昼食を摂った切りだったので、2人とも空腹だ。
ルームサービスが届くまでの間にベランダに設えてある露天風呂を覗いた。
とても豪華に作ってある。
勿論、隣や外からは見えない造りだが、本物の岩を使い、自然な状態に近い温泉がそこにあった。
こんな風に温泉に入った事など今までに無い。
瑠璃子は友達同士で経験済みのようだが、俺は帰国子女だったし、デビューしてからはいろいろな意味で温泉旅行に行く
ような余裕は無かった。
瑠璃子と2人切りでの旅はこれが初めてだった。
遠かろうが近かろうが、そんな事はどうでも良く、2人だけで過ごせるこの時間が貴重だった。
此処で使っている温泉は疲労回復に非常に効果があると言う。
温めの湯にゆっくりと浸かる。
大体、ツアー先ではホテルのシャワーで終わりだった。
だから、この瞬間がとても贅沢に思えた。
瑠璃子と2人並んで本当にいろいろな話をした。
全身に暖かさがジーンと拡がって行った。
その日、時計の針が24時を回ったその時に、俺は窓際に立っていた瑠璃子をいきなり後ろから抱き締め、用意していた翡翠のネックレスを彼女の首に付けた。
そして、セットのピアスのケースをその手に乗せる。
広く取られた窓が鏡の代わりになっている。
思った通りだ。瑠璃子には良く似合っている。
「誕生日、おめでとう。素敵だよ、瑠璃子……」
そっと冷蔵庫に入れておいた冷えたワイングラスを彼女の前に。
「素敵な瑠璃子に乾杯…」
俺の言葉を聞いた瑠璃子が、突然双眸からポロリと涙を零した。
「あり…がとう………こんなに嬉しい誕生日は初めて………」
まだまだ休みは2日もあるんだよ。瑠璃子。
いつも放っておいて、ごめんな。
2人だけの時間、大切にしよう……。
それが、俺自身にも必要な時間だから。
彼女の存在によって癒されて行く自分を実感しながら、俺はきつく瑠璃子を抱き締めた。

 

 

− 終わり −