『この思い、朽ち果てず』

 

※ この作品は140000hitをゲットされた北沢泉様に捧げます

 

夕方になって蒸し暑くなったと思ったら、雨がしとしとと降り始めた。
寝床で動けない沖田総司は、ねっとりとしたこの空気が鬱陶しくて嫌いだ。
身の回りの世話をしてくれる老婆に頼んで、少しだけ障子を開けたままにして貰っていた。
風通しが悪くて過ごしにくいからである。
その障子の隙間から切り取られて見える色褪せ始めた庭の紫陽花が、雨の雫を得て少し生き返ったように見えた。
夏の夕暮れは訪れが遅い。
雨降りの割にはまだ多少明るさが残っていた。
どこからか雨を避けて現われた真っ黒な猫が、沖田の病室になっている植木屋の離れの縁側にのっそりとした動きで上がって来た。
沖田が眼を細める。
「こっちへおいで」
労咳が悪化して、もう掠れた声しか出ない。
それでも黒猫はこちらを見た。
「……おいで」
沖田はもう1度、声を掛けてみる。
黒猫は大人しく、彼の枕元へと寄って来た。
全身真っ黒だが、眼だけは少し茶色掛かって、その瞳は大きく澄んでいた。
沖田には決してこの猫は気味の悪いものでは無かった。
黒は不吉と見られる事が多いが、彼は既に死を覚悟していて、いつその時が来ても良いと思っていたので、寧ろこの黒猫が迎えに来てくれたのなら、それでも一向に構わなかった。
「可愛いね……クロって呼んでもいいかい?」
黒猫はそのつぶらな瞳を沖田に向けたまま、小首を傾げるような素振りを見せた。
「クロ……羨ましいな……。お前は自由だ。どこにだって行ける……。私にはもうその縁側に出る力さえ、残っていないのだよ……」
沖田は咳を堪えながら、眼を閉じた。
「私は……京で沢山の人の生命を奪って来た……役目だったとは言え、今の私がこんな姿になったのは、その報いなのだと……そう思っているよ……」
沖田はもう刀も持てないに違いないだろう、そのか細くなった腕を露出し、自分の顔を手で覆った。
それと同時に、まるで沖田の代わりに空が泣いているかのように、雨が激しくなり始めた。
沖田が仰臥している布団と、枕元の刀架け、そして彼の数少ない荷物が入っていると思われる小さな行李、これがこの部屋にある全てである。
新選組の一番隊長として名を馳せた沖田の、これが終の住み処(ついのすみか)である。
今の彼は此処にその病身を隠すようにして暮らしている。
「剣に生きるつもりだった私が……病いを得て、こうして床の上で死んで行くだなんて……皮肉なものだね……。でも、これが私に下った天罰だと言うのなら、それも仕方がない。近藤先生や、土方さんと……一緒に行けなかったのが、私にとっては……一番辛い罰だったんだ……」
沖田は華々しく剣に散りたかった。
近藤と土方とともにあれば、それで良かった。
顔を覆った手をゆっくりと掛け布団の上に戻した沖田は、しかし泣いてはいなかった。
「お前、私を連れて行ってくれるんだろう?……違うのかい?」
黒猫は沖田をじっと見詰めていた。
彼の問いを肯定も否定もする素振りは無かった。
黒猫はまたしてものっそりとした動きで、沖田の身体に掛けてある薄い夏掛け布団の端にそっと乗った。
そのまま丸まって、沖田の視線を外す。
黒猫は沖田の病気が解っているかのように、しっぽを振ったりする事はせず、大人しく動かずにいた。
「京に居た頃が懐かしいな……。みんな一緒だった。特に隊が大きくなる前の壬生の時代が好きなんだ……………」
沖田は黒猫に問わず語りを始めた。
その眼は遠くを見ている。
今、彼の意識は完全に遥か彼方の京にあった。
「私は人斬りと恐れられながらも、その反面ではこれでも子供達に人気があったんだよ……」
再び沖田が眼を閉じた。
『沖田さ〜んっ!』
『にいちゃ〜ん!』
子供達の賑やかな声に忽ち囲まれる。
雨は何時の間にか止んでいる。
それに時間軸が巻き戻されたか進んだかして、昼間に変わっていた。
『今日は何して遊ぼうか?』
沖田の両手はあっと言う間に子供達に占領され、奪い合いになる。
こんな姿を土方に見られでもしたら、
『武士が両手を塞いでしまってどうする?いつ賊に襲い掛かって来られるか、解らんのだぞ』
苦笑しながら、そう言われそうだな……沖田は遠く壬生寺に飛んだその意識の中で考えた。
『…総司!…総司っ!!』
自分を呼ぶ声に振り返る。
そこには近藤がいる。懐かしい総長・山南の姿もある。
井上のおじさんも……藤堂さんに山崎さんも……。
土方さんは居ないんだね……………。
まだ……生きている……。戦っているんだね……。
私も行こう。
涅槃とやらに。
ふと気が付けば、子供達が寂しげに離れた処から沖田を見詰めていた。
そして、彼の懐には黒猫が抱かれていた。
「やっぱりお前がお使者だったんだね……。もう、いいよ。あちらに連れて行っておくれ……」
沖田は胸に抱いた黒猫に優しい視線を投げ掛けた。
現実の世界なのか夢の世界なのか、解らない。
だが、確かに自分の行く手には近藤達が居て、後ろから壬生寺の子供達が彼を見送るように並んでいる。
10人以上の子供達が、悲しみを堪え兼ねたかのように啜り泣いている。
沖田は子供達の方に振り返った。
そして、満面に笑みを湛えて、こう叫んだ。
「泣かないで!こうしてまた逢えたじゃないか!」
そう言った時の沖田の姿は病み衰えてはいなかった。
あの頃の健康な沖田だった。
声にも張りがあった。
その事で沖田はこれが現実の世界とは隔離された場所での出来事だと気付いた。
「クロ……有難う。みんなに逢わせてくれて……。土方さんと逢えないのは残念だけど、生きて戦っていると言う事が解ったのだもの。もう充分だよ……。身体が朽ち果てても魂魄は残る。私は土方さんを追い掛けて風になるんだ」
沖田は黒猫の頭を愛おしそうに撫でた。
壬生寺の夏の風景が突然華やかな春に変わった。
「うわ〜、綺麗だな〜っ」
沖田は無邪気に叫んで桜の下に向かって走り出した。
見事な桜が沖田の眼を和ませ、花吹雪に包まれながら、吸い込まれるように沖田は夢うつつになった。
最後に美しい物を見せてくれたのは、『クロ』だったのか……。
翌朝、沖田の身の回りの世話をしている婆様が食事の用意をして彼の病室に入った時、沖田は安らかな表情で永遠の眠りについていた。
その彼に寄り添うようにして、一匹の黒猫が冷たくなっていた。
沖田の顔には微笑が貼り付いたままだったと言う。

 

− 終わり −