ピアスは片方だけ

 

 

 

◆◆◆ ピアスは片方だけ ◆◆◆

 

高根沢紀彦(たかねざわ・としひこ)は、自宅マンションのリビングで、マティーニのグラスを長い事、弄んでいた。
思い切り、強い酒を飲んで潰れてしまいたかった。
大切な物を失った脱力感に、彼は今、全身を包まれていた。
独りになりたい………こんな気分の時は、馴染みの店じゃない方がいい。
ツアー先から戻った彼は、早々に自宅に引き篭もり、自分の殻を作った。
あの時……バンド仲間の坂羅井正流(さからい・まさる)や作崎鴻助(さくざき・こうのすけ)の前では、普通に振舞っていた。
いや、『彼女』の前でさえ……彼は心から祝福する態度を見せていた。
勘の鋭い高根沢は、その事が告げられる前からそれを知っていた。
しかし、今日のコンサートの終演後の楽屋で、彼女から『結婚の為、このツアーを以ってスタッフを辞めたい』と言う申し入れがあった。
その瞬間から、高根沢の胸にはポッカリと風穴が空いた。
山本瑠璃子(やまもと・るりこ)はファンクラブのデスクをしている頃に専門学校で学んで資格を取り、ALPEE専任のヘアメイク技術者となった。
だから、ALPEEとの関わりは10数年にも及び、もう既に30を2つ超えている。
仕事をしている時は、自分の事には構っていられないとばかりに長い髪を引っ詰めにして、Tシャツ(長袖のシーズンは生成りの白いシャツを腕捲りにして…)にジーンズ、そしてスニーカーと言うスタイルで走り回る。
が、一度仕事を離れ、腰まである程良くウェーヴの掛かった髪を下ろすと、途端に女らしくなる。
高根沢は2つ年下のそんな彼女が好きだった。
服装と同様に飾らない性格。
風に靡く長い髪。
宝石のような彼女の笑顔。
抱き締めれば折れそうなスラリと伸びた肢体。
素顔にローズピンクのルージュが色白の肌に映えていた………
彼女はマネージャーの棚の上よりもずっと前から高根沢の傍にいた。
職業上、ALPEEの3人の中で一番一緒にいる時間が長いのは必然的に高根沢だった。
いつしか彼女を愛するようになった自分に気付いた高根沢は、瑠璃子に想いを打ち明けた。
高根沢の傍に少しでも長くいたくて、ヘア・メイクの仕事に就いた瑠璃子に異存がある筈も無く、それから2人はゆっくりではあるが、じっくりとその愛を育んで来た筈だった………

 

 

*     *     *     *     *

 

 

高根沢と瑠璃子は、レコーディングやリハーサルの日々が続くと、逢う事も侭ならなくなった。
瑠璃子はALPEE以外の仕事はしていなかったので、そう言う時は仕事で気を紛らすと言う事も出来ずに、ただ高根沢からの連絡を待っていた。
高根沢は一旦スタジオに篭もると時間を忘れる男である。
それだけ音楽に没頭する。
スタジオからスタジオへ。レコーディングのスケジュールに忙殺される。
レコーディングの合間にあるTV出演や雑誌の取材などの現場が2人の逢瀬の場所であった。
それでも瑠璃子は何1つ文句を言わなかった。
「少しでも一緒にいられるだけでいい。私の選んだ人が偶々こう言う職業の人だっただけなのよ。私は貴方に愛されていると言うだけで、いつでも待っていられるわ」
瑠璃子はそう高根沢の耳元で囁くのだが、高根沢はそれが自分に向けられた言葉ではなく、彼女が自分自身に言い聞かせているのだと言う事が痛い程解っていた。
それだけに益々彼女が愛おしい存在となって、時にはそれが逆に高根沢を苦しめた。
待つ身の辛さを思い遣ると高根沢には彼女が居たたまれなかった。
特に彼女が三十路に入る時、高根沢は眠れない程に悩んだ。
30歳を迎えた瑠璃子は女盛りで、その華を思い切り開花されていた。
高根沢は彼女との長い春に決着を着けるべきだと思った。もう既に付き合い始めて7年の歳月が過ぎていた。
彼女をこの歳まで待たせてしまった事が高根沢には重く圧し掛かっていた。
彼は瑠璃子の30歳の誕生日に、隠れ家的なフランス料理の店の個室でフルコースをご馳走した後、車をベイエリアへと走らせた。
珍しく空が澄んでいる夜だった。
車を停めて車体に寄り掛かって2人で降るような星を眺める。
「ありがとう。忙しいのに時間を作ってくれて…でも、余り無理はしないで。プロデュースのスケジュールが詰まっているのは知っているわ」
瑠璃子は高根沢がドキっとするような、落ち着いた笑みを浮かべた。
質素な花柄のワンピースが彼女の美しさを際立たせている。
高根沢は衝動的に彼女を強く抱き締め、貪るように唇を重ねた。
7年も付き合って来て、こんな衝動的な行動を彼が取ったのは、初めての事だった。
まるで2人の為にあるようなその空間に、邪魔をする存在は何1つ無かった。
お互いの全てを求めるかのように、星空の下で2人の熱い抱擁は続いた。
恋愛映画の1シーンのようなカップルだった。
高根沢はある切ない思いを抱いて、瑠璃子を抱き締めていた。
心から自分の何もかもが溢れ出て、消えて無くなってしまいそうな妙な感覚が彼を襲った。
「瑠璃子……話したい事がある………」
高根沢は瑠璃子を腕の中に抱き取ったままで、彼女の瞳を真っ直ぐに見詰めた。
「出来るものなら、君を攫ってどこかに行ってしまいたい……。でも俺にはもう1つ愛するものがある。俺は今、そいつにのめり込んで瑠璃子の事だけを見ている事が出来ない………長年やって来て、やっと軌道に乗った処だ。今、俺には音楽しか見えなくなっている。それなのに…俺は、瑠璃子を失いたくないと、まだ思っている! ………自分勝手な男だと嗤ってくれ。俺には瑠璃子を包み込んで幸せにしてやれる資格も能力も無い。此処まで待たせておいて!!」
高根沢は見る見る内に蒼白になって行く。
「折角の誕生日にこんな事を言って、済まないと思っている。でも……瑠璃子、俺は君を縛り付けるつもりは全く無いんだ。俺には君を幸せにしてやる事が出来ないっ!」
こんなに感情的になった高根沢を瑠璃子は見た事が無かった。噛み締めた唇から血が滲んでいた。
瑠璃子はハンカチでそっとそれを拭き取った。
「馬鹿ね。1人で苦しんだりして。私はいつまでも待ってるって言ったじゃない。今もその気持ちに変わりは無いわ……。音楽が恋敵じゃ敵いっこないもの。貴方の仕事にもう少し余裕が出来たら、その時、私の事を考えて……それまでは今まで通りでいいわ。私も貴方を愛している。誰にも奪われたくない。でも、貴方は私だけの物では無いのよ。それは宿命だと思ってる。沢山のファンの人達の物だもの………だから、もう自分1人で苦しまないで。私はいつまでも貴方の傍にいるから。気持ちだけは初めて逢った時のまま。歳だけはこうして重ねて行くけれど、それはお互い様でしょ?」
瑠璃子は自分から高根沢に優しく唇を押し付けた。
ふと来た海風に2人の長い髪がサラリと靡いた。

 

 

「ねぇ、作崎。やっぱり帰ろうよ」
一升瓶を抱えた坂羅井が、高根沢のマンションの前で、急に躊躇って歩を止めた。
「何で?折角此処まで来たのに」
先を歩いていた作崎が振り返る。
2人はマネージャーの棚の上も連れずに、此処に来ている。
「高根沢、やっぱり独りになりたいんじゃないかなぁ……って思うんだよ〜ん」
「あいつは思い詰めるタイプだから、独りにさせちゃ駄目なんでいっ!さっきまで高根沢が身体を壊すんじゃないか、って心配してたのは、坂羅井の方じゃん」
「そうなんだけどね……」
「あれっ?珍しく歯切れが悪いなぁ、坂羅井。高根沢はおいら達で盛り上げてやろうよ。その方がいいよ、絶対!」
「そうかなぁ?」
「とにかく行こうよ。こんな所にいたら、目立っちまうぜぃっ!」
「うん」
作崎に引きずられる形で坂羅井はマンションの中に入った。
オートロックの暗証番号は知っている。
作崎は慣れた手付きでそれを入力した。
ロビーやエレベーターの中で誰かに見られると面倒だったが、深夜と言う事もあり、誰1人彼らと顔を合わせる事は無かった。
「此処に来るのも随分久し振りでい……。最近はプライヴェートで逢う時間がねぇしな。あ、そうだ。絵理ちゃん来 てねーかなぁ?良く片付けに来てるらしいぜぃ」
 ※絵理…高根沢絵理。高根沢の3つ年下の妹。兄譲りの美貌で美人女優の誉れが高い。
「来てる訳ないよ〜ん♪どらまのろけ(ドラマのロケ)で北海道に行ってる筈だもん」
「あ、そう……ん?坂羅井、何で絵理ちゃんのスケジュールを知ってるんでいっ?!抜け駆けは無しだぜぃ!」
「何言ってるの?変な奴!……作崎、高根沢の弟になりたいの?」
作崎は少しうろたえた。
坂羅井は、作崎が高根沢絵理に想いを寄せている事などとっくにお見通しで、彼をからかってその反応を楽しんでいるだけである。
「え?…あ、ああ、着いたよ。坂羅井、明るく行こうゼイ!」
「言われなくたって、わたしはいつでも明るいよ〜ん♪」
「そーそー!」
作崎はニコッと笑うと、高根沢の部屋のインターホンを鳴らした。室内で受話器を上げる音がした。
「いえいっ!作崎でぃっ!高根沢いるかぁ?」
「やっほー♪わたしもいるよ〜ん♪」
2人はインターホンに向かって、思い切り愛嬌を振り撒く。
インターホンからは返事が無かったが、暫くしてからそっと扉が開いた。
この間は、高根沢が自分を取り繕う時間だったのかもしれない。
「2人ともこんな時間にどうしたんだ?酔っているのか?」
坂羅井と作崎はただニコニコ笑っている。
「何だ、気持ち悪いな。まあ、入れよ」
高根沢に招き入れられて部屋に入った。
4LDKのマンションで、リビングが12畳もあって、広々としている。
防音工事を施してあるマンションなので、グランドピアノと愛用のエレキギターが3本程置いてある。
別に1部屋をギターコレクション専用にしていた。
さらに豪華なステレオセットが音場の良い位置にセットされていた。
さすがに一流ミュージシャンらしいこだわりのある配置だ。
部屋の四隅には大きなスピーカーがセッティングされ、ヴァイオリンの音色が流れていた。
部屋に足を踏み入れてすぐに、飲み掛けのマティーニのグラスが眼に入った。
「高根沢、そんなにキツイの飲んで大丈夫?」
坂羅井が眉を顰めて、作崎と顔を見合わせた。
「大丈夫だよ、明日はスタジオだから、それなりにセーブしている」
高根沢は今、『CONFUSION』と言うバンドのプロデュースを手掛けていた。
※CONFUSION…『混乱』の意味
「高根沢ぁ。今日は一緒に飲もうと思って日本酒を持って来たんだけど、もう飲むのは止めておいた方がいいよん。まだ普段の酒量は超えてないみたいだけど……それとも、飲まないと眠れない?」
※坂羅井は日本酒党。旨い日本酒を求めては全国に足を運ぶ
「え〜いっ!坂羅井、此処は思い切り潰れる位飲ませちまった方が気分がすっきりするんじゃねーかい?」
作崎が景気を付けるように元気に叫んだ。
しかし、坂羅井は真面目な顔をして、
「高根沢、ルリの事は辛いだろうけど、もう決まってしまった事なんだもん。耐えなよ……。酒で気持ちを紛らわしても一時の事なんだよ〜ん。わたしは、高根沢は作崎が心配しなくても自分で断ち切れると信じてるよ〜ん♪」
「なんでい、なんでい!坂羅井の方が心配してた癖によー」
「わたしは高根沢の身体を心配してるだけだよ〜ん。心の傷が身体に影響する事が多々あるからね」
「おいおい、誰が心に傷を負っているって?」
高根沢は笑い話にしようとしている。
色白の頬が紅を差したように良い色に染まり、唇は火照って赤くなっていて、少し色っぽい。
勿論、本人にそんな自覚は全く無い。
「高根沢、おいら達何年付き合ってんでいっ!ルリとお前が長い春を過ごしている事は2人ともずっと前に気付いていたんでぃ。年齢的に考えても、もうそろそろ2人は結ばれるんじゃないかと思ってたんでい」
「まさか他の人と一緒になるなんて思わなかったよ〜ん」
「待ちきれなかったんだよ。俺が彼女を守ってやれなかったから……」
高根沢が溜息混じりに呟いた。
「高根沢、いいのかい?それで。自分を責めてばかりじゃ辛過ぎるんじゃねぇの?」
「瑠璃子が幸せになってくれれば、俺はそれだけで充分だ。俺には彼女を幸せにする事は出来ない……」
高根沢はマティーニのグラスを一気に呷る。
「高根沢、ルリと何かあったのか?」
作崎が優しい声音で訊ねた。
「いや……2年近く前にそんな話をした事があった。あの時は待っていてくれると言っていたんだ。俺はそんな彼女に甘えていた、って言う訳だ」
高根沢が自嘲的な笑みを洩らした。
「自己犠牲的だね、高根沢。自分が苦しくなるばかりだよ〜ん。そうやって、身を削って曲を作っている感じがするんだよ〜ん!」
坂羅井は何時の間にか一升瓶のラッパ飲みを始めている。
「坂羅井、止せよ」
今度は高根沢が眉を顰める番だ。
「坂羅井、グラスを持って来るからそれで飲めよ」
「いいよ、高根沢。おいらが取るから」
サイドボードの傍にいた作崎が立ち上がり掛けた高根沢を制した。
「お猪口は無いの?」
坂羅井がおどけた眼をして訊ねた。
「ねぇよ、そんなもんっ!高根沢がお猪口を持ってる図って想像出来るか?」
「……出来ないっ(笑)」
「あるよ、兄貴が来た時に置いて行った筈………」
結局、高根沢が立ち上がって、表からは見えない扉の奥からそれを出して来た。
「お前達、何で来たの?車?」
「タクシーでぃ」
「明日は2人ともオフだろ?泊まって行けよ。俺がスタジオに出掛ける時にタクシーを呼んでやるよ」
高根沢はこの2人を見ていると本当に心が安らぐ。
掛け替えの無い大切な仲間である。
心配してわざわざこの部屋を訪ねてくれた彼らは、愛を失ったばかりの高根沢の心の痛みを何時の間にか和らげてくれた。
簡単には瑠璃子を忘れられないが、少しずつ癒されて行くだろう。
「3人で一緒の部屋で寝るなんて何年振りだろうね♪」
坂羅井が破顔した。
「新人の時以来じゃねぇか?修学旅行気分でいっ!」
作崎はよーし、飲むぞぅ!とばかりに腕捲りした。
瑠璃子の結婚式には多分3人共招待されるだろう。
その時には毅然とした態度で、心から祝福してやろう……と高根沢は思った。

 

 

高根沢はマネージャーの棚の上が乗って来た車に乗り込み、坂羅井と作崎はそれぞれタクシーに分乗して高根沢のマンションから離れた。
この2人に再び逢うのは、明日の夕方である。
TVの歌番組に出演する予定だ。
………と言う事は、ヘア・メイク担当の山本瑠璃子とも顔を合わせる事になる。
高根沢は彼女と逢うのが憂鬱だった。
いくら心の整理をしたつもりでも、彼女の顔を見た瞬間に、それがガタガタと崩れてしまうような気がする。
自分がそんな未練な男だとは思っていなかった。
一旦は諦めようとした彼女なのだから。
しかし、『いつまでも待っている』と言った瑠璃子に、未来を期待してしまったのは、事実だった。
あの時、そう言われなければ、今こんな思いをせずに済んだ筈だが……そう思うのは男らしくない、と今の高根沢は自分を雁字搦めにしてしまっている。
凄く胸が苦しかった。
高根沢には今まで以上に音楽に打ち込む以外に、彼女を忘れる術は無い。
研ぎ澄まされた感性が、音楽だけに注ぎ込まれる。
棚の上は薄々事情を知っていた。
彼は密かに高根沢の身体を心配している。
坂羅井からも、彼がのめり込み過ぎない内に家へ連れ戻せ、と言われていた。
『CONFUSION』は、ギタリストの高崎宗司のエフェクター好きが昂じて、ギターの音が歪み勝ちである。
高根沢はまずそこから梃入れしなければならなかった。
エフェクターの使い過ぎが逆効果だと解らせるまでにかなりの根気と時間を要した。
高崎はギターのテクニックに自信があるので、それが却って周りを見えなくしていた。
高根沢は、ギター抜きのオケを使って、実際にいろいろなエフェクターの繋ぎ方でフレーズを引き比べて見せ、音の違いを耳で理解させた。
なかなか頑固な男で、理屈では納得しなかったが、さすがにプロのミュージシャンだけあって、音で聴かせた事で自分のギタープレイの欠点を理解した。
この事によって、高崎のギターサウンドが大きく広がったと言っていい。
やっとレコーディングが軌道に乗って来た処だ。
高根沢はその為、のめり込んだ。こうなると、ワーカホリックの彼は音楽以外に何も見えなくなる。
結局、翌日のTV局入りは寝不足のままする事になってしまった。
ALPEEの3人がリハーサルを終えて楽屋に戻ると、既に瑠璃子は支度を済ませて待っていた。
高根沢は少し仮眠を取る、と言ってソファーに横たわってしまった。
それを瑠璃子が気にしてチラチラと見ていた。
高根沢は熱でも無い限り、どんなに寝不足でも楽屋で横になった事は無かったからだ。
でも、作崎も坂羅井も、そして棚の上も彼をそっとしている。
普段なら、具合でも悪いのか?などと訊く筈だ。
多分、3人とも事情を察しているのだろう、と瑠璃子は思った。
高根沢が自らそれを言う筈が無かったが、長年の付き合いから、お互いに空気のように相手も気持ちが解るようになっているに違いない。
それでも瑠璃子は、彼らがいるので、迂闊には高根沢とその事を話せないと思っていた。
彼女は約束を破った事に負い目を感じていた。
精神的に強い人だと思っていた高根沢を、自分はひどく傷付けた。
そして、高根沢が瑠璃子の事を責めずに、自らをひたすら責め続けている事も知っている。
瑠璃子は今でも高根沢を愛している。それはきっと一生変わらない。
しかし、たった1度の過ちが、彼女と高根沢を引き裂く結果となったのだ。
他の男の子供を胎内に宿した事を、彼にはっきりと告げなければ、と瑠璃子は思った。
初めは、綺麗なまま別れたいと思っていた………
だが、必死に自分の気持ちを押し殺して、心から彼女の結婚を祝おうとしている高根沢を傷付けたまま、彼の前から去る事は出来ない、と瑠璃子もまた苦しんだ。
このまま逃げるのは卑怯だと、彼女は気付いた。
悪いのは私……これ以上、自分を責めて苦しまないで!
瑠璃子は作崎のヘア・メイクをしながら、どうやら本当に眠ってしまったらしい高根沢に心で呼び掛けた。
「ルリ……泣いてんのか?」
驚く程穏やかな作崎の声で、瑠璃子は初めて自分の頬に涙が伝っているのを知った。
鏡の中の作崎が、彼女を見ていた。
「ルリ、お前本当に幸せな結婚なんだろうな?……そうでなきゃ、無理にルリの事を諦めようともがいている高根 沢が余りにも可愛そうでい。ルリの幸せの為に、って高根沢は自分の気持ち殺してるんだよ」
作崎は静かに言った。
瑠璃子は堰が切れたように泣きじゃくり始めた。
高根沢の顔を心配そうに覗き込んでいた坂羅井がその泣き声を聞いてこっちへやって来た。
「ルリはまだ高根沢を愛しているんだね?それなのにどうして?………高根沢の言う通り、彼を待ち切れなかっただけなの?」
瑠璃子はまるで子供の所業のように大きく首を左右に振った。
彼女の嗚咽を聞き咎めたのだろう。何時の間にか寝てい筈の高根沢がソファーの上に起き上がっていた。
「坂羅井、棚の上、先に飯喰いに行こうぜ」
作崎が2人を誘って、楽屋を出て行った。
「………………………………………」
高根沢は無言で作崎が置いて行ったアコースティック・ギターを手にした。
軽くメロディーを爪弾く。その場で閃いた新しいメロディーだ。
余談だが、この曲が後に高根沢が切なく歌うバラード『ピアスは片方だけ』の原曲となる。
「ごめんなさい、私………」
「何も言わなくていいよ。君が幸せなら………」
高根沢はギターを弾く手を止めないまま、呟いた。
その表情は、諦めの境地に達していた。苦しみ抜いた跡がありありと窺える。
「私、お腹に子供が…いるの」
瑠璃子の言葉は、高根沢に追い討ちを掛け、かなりの衝撃を与えるに充分過ぎた。
全身を雷に貫かれたようだった。実際、そうだった方が良かったと思った。
しかし、彼はその受けた打撃を一瞬で見事に隠した。
「たった1度の過ちだったけど、私は貴方を裏切ったの」
瑠璃子はわなわなと全身を震わせていた。寒さに震える小さな小鳥のように。
「瑠璃子をそこまで追い詰めたのは、俺なんだ……だから、もう何も言わなくていいよ。俺は待たせるばかりで、君に女としての幸せを上げる事は出来なかったから………」
高根沢はギターをそっと置き、優しく微笑んで見せた。
瑠璃子は耳のピアスに手をやった。1年前に高根沢がプレゼントしてくれたものだ。
シンプルなデザインの、ダイヤモンドのピアスだ。
瑠璃子は左耳のピアスを外し、高根沢の手に握らせた。
「本当はちゃんと返すべきなんだろうけど………片方は貴方の代わりに持っていたいの……我儘だけど、許し て……私、まだ貴方を忘れられないみたい……!」
瑠璃子は高根沢の胸に縋って泣きじゃくった。
「いい人なんだろうな?……幸せな結婚なんだな?……これで、いいんだな?瑠璃子」
高根沢は瑠璃子の下ろした長い髪を愛しげに撫でた。
彼女の温もりをこの手に感じるのも、これが最後だろう。
瑠璃子は小さく頷いた。
「それなら、もう泣くな。お腹の赤ちゃんに影響を与えるぞ」
高根沢は彼女の肩を優しく叩いた。
彼もまた、自分の中で吹っ切れたものを感じたような気がした。
長い恋の終わりだった………

 

 

 

◆◆◆ ヴァージン・ロード ◆◆◆

 

これから、父に腕を取られて歩んで行くヴァージン・ロードの赤が、どんなに眩しかった事か………
瑠璃子はそれを直視出来なかった。
これでいい、これでいいのよ。
あの別れの日から、何度そう自分に言い聞かせて来た事か。
参列者の中に高根沢がいる。
後姿でも長身の彼はすぐに見分けが付く。
彼女が愛した男だった。虫が良過ぎるかも知れないが、彼女は今でも彼を愛している。
どこまでも白いウェディングドレスと、透き通るようなヴェールを身に纏って、新郎の方へまっすぐ歩いて行く時、彼女は思わず『どうぞ時よこのまま止まって……』と祈らずには居られなかった。
新郎は中学時代の同級生。彼女はその頃からの憧れの女性だったそうで、とても優しく扱ってくれた。
そんな彼が瑠璃子の心のエアポケットにスッと入り込んで来たのだ。
同窓会での再会が縁だった。
瑠璃子は幸せな筈だった。
今日は世界中の誰よりも幸せな花嫁である筈だった。
なのに、純白のドレスを着て、匂う程の美しさを醸し出している彼女のいつもの澄んだ瞳は、心が血を流しているような濁った暗い色をしていた。
その瞳が無意識に追い求めているのは、新郎ではなく、高根沢であった。
高根沢は、優しくて心が広く、繊細だが、頼りになる男らしさを秘め、それでいてこちらが抱き締めて上げたくなるような母性本能を擽る神秘性を持っていた。
少し女性的な、とも言える、絵に描いたような(彼の仲間が『少女漫画』だと形容していたが、まさにその通りだと言える)美しさと、音楽の才能を持った彼を待ち続ける事が出来ずに、今ヴァージン・ロードの途中で彼女を待っている栗林と結ばれてしまった。
栗林の子を宿していると知った時、彼女は堕そうと思った。
だが、病院の前で立ち竦んで動けなくなった。自分の中にいる生命を粗末には出来なかった。
その時、高根沢との別れを決意した。
お腹の目立たない内に、と言うのは口実で、一刻も早く自分の中で高根沢との間に一線を引こうと、悲鳴を上げている心に嘘をついて、結婚式に臨んだのである。
その為に、彼とその仲間である坂羅井と作崎を招待した。
しかし、簡単に一線が引ける程、彼女の傷口は塞がっていなかった。
あんなに彼を傷付けて別れたのに………
もう戻れないのよ。
もう1度自分に言い聞かせてみた。
とても難しい事で自分には出来そうも無いように思われた。
でも、彼女にはそうする以外に道は残されていないのであった。
彼女は自分の心に蓋をして、彼から眼を逸らすと、その視線を新郎の方に投げ出した。
君が幸せになるのなら……と、傷ついて泣いている心を押し隠して祝福してくれた高根沢の為にも、彼女が揺れていてはならなかった。

 

 

高根沢は、彼女を本当に心から祝福してやろう、と心に決めて来た…筈だった。
だが、彼は見てしまったのだ。
彼女の暗い瞳を。
辛かった。あれからずっと心を支配していた思いが再び頭を擡げる。
何故、あの時、彼女も子供も受け入れてやろうとしなかったのだろう。
彼女は拒否したかもしれないが、何故すぐに彼女の子を自分の子として育てる決意が出来なかったのだろう。
あんなに愛していたのだ。
例え自分の子ではなくとも、愛する瑠璃子の子なら、愛せた筈だ。
綺麗事かもしれないが、 高根沢は本気で思った。
それが彼女を失わないで済むたったひとつの方法だったのだ。
自分の取った方法は、彼女を諦める道だったが、果たしてそれで良かったのだろうか?
後々後悔するだろう、と思った。いや、もう既に………
失うには余りにも大き過ぎる存在だった。
綺麗だよ、瑠璃子。
愛している。狂おしい程に………
君が、欲しい。もう無理な事であっても。
(俺は馬鹿だ。君に俺の愛を疑わせてしまった……。もっと抱き締めて上げれば良かった。でも、あの楽屋で、幸せな結婚なんだな?と訊いた俺に頷いて見せた瑠璃子は嘘じゃなかったんだろう?頼む、瑠璃子。そうだと言ってくれ。そんな眼をしないでくれ…でないと俺は、映画さながらに君を奪ってしまいそうだ………)
気が付くと、両脇から作崎と坂羅井に支えられていた。
花嫁が父親の腕から新郎の腕に移ったその時だ。
知らぬ間に気が遠くなって身体がふら付いたらしいが、2人は何も言わなかった。
彼の気持ちが、痛い程に音を立てて、彼らの心に流れ込んで来ていたからだ。
あのヴァージン・ロードで待っているのは自分だったかも知れない。
身を焦がす程の胸の苦しさ。
そう、いつだって、恋はほろ苦い。
そんなのは今更知るような味じゃない。
ヴァージン・ロードの赤が、彼女のウェディングドレスの白を際立たせて、今日の花嫁はこの世のものとは思えない程、美しい。
高根沢は今、失ったものの大きさを改めて感じている。
そして、彼女が他人の花となった今、思い出までをも断ち切ろうとしていた。
それが彼にとって最良の道だった。
手の届かないものへの思慕を心の奥の扉に閉じ込めて、今、彼はそっと鍵を下ろした。

 

 

*     *     *     *     *

 

 

瑠璃子の結婚生活は長くは続かなかった。
不幸にもちょっとしたいざこざで夫に階段から突き落とされ、お腹の子の生命が消え去ってしまったのだ。
夫の優しさは仮面でしかなかった。
どんな時にも、高根沢と比べてしまう癖に気づいた瑠璃子は、自分から離婚を言い出した。
結婚生活に敗れた彼女は、今、ALPEEの地方公演の会場前に立っている。
足の向くままに来てしまった。
だが、このまま高根沢の胸に飛び込んで良いものなのかどうか、彼女にはまだ答えが見付けられない………

 

− 終わり −