咲き誇る…

この作品は30000hitの佐貴さまにリクエストを頂戴して書かせて戴きました。

 

 

降るような見事な桜だった。
ぽかんとした顔で言葉も無く見上げている幼い2人の眼には、一生焼き付いて消えまい。
近所同士のよしみで家族ぐるみでやって来た花見の席から脱け出したきり、元の場所に戻れなくなってしまったこの2人。
夕闇が迫る中、自分達の背丈より高い草を分けながら、手に手を取って泣きながらとにかく前に進んで来た2人の前に、突然視界がぱーっと拡がった。
思わずワ〜っと感嘆の声を上げて走り出たそこは、人に踏み荒らされていない、別世界のような場所だった。
満天の星、そして、月明かりに照らされる数十本の桜の樹。
先程までお腹を空かせていたのも、忘れ去る程の美しく幻想的な光景。
昼間、花見の席で眼にした桜よりも、何とも言えない気高さと鮮やかさがあり、2人は夢を見ているような気持ちになった。
1人はまだ前髪の取れていない少年。
名をそうじろうと言う。まだ十の声も聞いていない。
物事を素直に見詰める眼。美しい物を見て感動出来る真っ直ぐな心を持っている。
瞳は澄んでいて、そして優しい。
白地に紺の絣の柄の着物に、きちんと紺色の地に灰色の縦線が入った袴を着けている。
躾が良いのだろう。
時折聞こえる少年の声は、まだ声変わりもしていないが、とても折り目正しい。
時たま心地好い風が彼の頬を撫で、それに煽られて桜の花びらが舞う。
少しだけ物悲しく、少しだけ夢見心地。
そうじろうは不思議な感覚を得ていた。
「おさきちゃん、わたし達は夢の中にいるのかな?」
さき、と呼ばれた少女は、おかっぱ頭に切り揃えた髪型が愛らしい。
そうじろうよりは2つ位年下であろうと思われる。
薄黄色の地に桃色の桜の花びらが舞うような着物を纏っている。
母親が今日の為に自分の娘時代の着物を解いて誂えたものだろう。
「わたし達に向かって、花びらが降って来るのね」
さきは瞬きをするのも惜しいような気分になっていた。
2人の頬を濡らしていた筈の涙はいつしか乾いている。
誰にも教えたくない、秘密の場所にしておこうと、2人は誓った。
次に来る時に迷わずに来れるのか、などと言う事は全く考えなかった。
密やかなる可愛らしい約束だった。

 

 

*     *     *     *     *

 

 

「あれから、私は試衛館道場に内弟子として住み込んでしまい、お沙紀さんとは逢えなくなってしまった…。あの時の多摩の桜、もう1度見たいなぁ」
沖田総司が述懐しているのは、清水寺境内の茶店の奥である。季節は春だった。
「私はどうもこう言う事には不調法で…こんな場所に付き合わせたりしてごめんなさい」
総司は最初に沙紀を此処に誘った時に、断っていた。
「でも、驚いた。あんな処で沙紀さんに逢うだなんて。だって、此処は江戸ではなくて京ですよ」
2人が再会したのは、昨日の夜の事だった。
近藤局長のお供で渋々着いて行った祇園のとある店で、接待酒の席に飽きた総司は、厠に立つ振りをして、さり気なく席を外した。
酒は嫌いではないが酒宴の後の事が苦手な彼は、どうやってそれを避けて済まそうかと考えあぐねていた。
いつもなら、先に帰ってしまうのだが、今日は近藤の護衛として、公務でやって来ている。
縁側に腰掛けて、悩んでいる所に下働きの沙紀が膳を持って通り掛かったのだ。
「お武家様、何をしておいでです?」
声を掛けられて驚いたように顔を上げた総司を見て、沙紀は最初、声も出なかった。
あの頃のままの『そうじろう』君が其処にいたからである。
ひょろっと背が高くなったが、間違いようのない『おきたそうじろう』だった。
「おさきちゃん?」
総司もすぐにその女中が沙紀だと気が付いた。
沙紀の仕事はもう少しで上がると言うので、総司は『昔の知己に出逢ったので』と近藤に断って、彼と敵娼の部屋が見渡せる物置の中で、沙紀と短い時間、昔語りをした。
夫が待っていると言う沙紀を長く引き止める事は出来なかった。
その時に総司は沙紀の仕事が昼で終わると言う日を聞き出した。
そして、丁度自分の非番と当たっていたので、彼女をこの茶店に誘ったのである。
「私も。そうじろうさん、いえ、総司さんが道場の皆さんと共に京に上ったとは人づてに聞いていましたが、まさ か、お目に掛かれるだなんて……」
沙紀は武家の妻女風に髪を結っている。少しうなじにほつれた髪が切なく色っぽい。
薄紫の着物を着ている。
「嫁がれたんですね」
総司は静かに訊いた。
「ええ。14の時に江戸定在の5歳上の武士の家に嫁ぎました。主人の出仕の都合で1年前に京に出て参りましたが、主人が病い重篤になりまして、お勤めもこなす事が出来ず、生活に困っております。お恥ずかしい話ですが、それで私はあの店で下働きを始めました」
沙紀は、小さい少女から突然武家の妻女に成長して、総司の前に現われた。
少女の頃の面影は残っているが、総司はドキっとするような色香に戸惑ってしまった。
花町の女とは違う色香だ。
白粉臭い色香よりも、総司にはこちらの方が好みだった。
でも、沙紀は他人の花である。
総司はグッと何かを堪えなければならなかった。沙紀から顔を背けた。
「ごめんなさい。沙紀さんが余りにも美しくなられたもので、つい見とれてしまいました。不躾でしたね」
「まあ、総司さんったらお上手ですこと。総司さんこそ、男らしくなられました。剣術もとってもお強いのでしょうね?昨日、新撰組においでだと伺った時には驚きましたけれど、試衛館塾頭でいらした貴方ならば、心配は無いと思い直しましたわ。あの頃と全く変わっておられませんわね。純粋なまま大人になった、そんな感じが致します」
袂を口に当てて、艶やかに笑った沙紀は、笑顔が素敵な女性になった。
総司は彼女とは対称的に、表情を暗くした。
「私は変わりましたよ。池田屋で何人も人を斬りました。人は私を鬼と噂しています。あの頃の私と同じであろう筈が無い」
「いいえ、総司さん。あの時の多摩の桜を忘れてはいない貴方は、せめてあの桜を夢見ている間だけでも、昔のままでいられる筈です」
沙紀は茶店の表に出て、清水寺の桜を見上げた。
「ほら、見上げてみて。多摩の、あの時の桜に比べたら見劣りするけれど、懐かしい感じがしませんこと?」
振り向いた沙紀は、なぜか頬に涙を浮かべていた。
総司はハッとした。
この人はもしかしたら今、幸せでは無いのかもしれない。
その時だった。異様な感覚が総司の全身を包んだ。
沙紀を突き飛ばして、身を低くした。
ズガーンっ! 総司の勘は当たり、銃口が吼えた。
次の瞬間、狙撃に失敗したのを悟った賊がゾロゾロと総司の周りを囲んだ。
「8人か……」
呟いてから、総司は沙紀の存在に気付いた。
「お沙紀さん、店の奥に隠れていなさい。決してこれから起こる事を見ないように」
沙紀に言い捨てると、総司は賊に落ち着いた声で言い放った。
「新撰組一番隊長・沖田総司と知っての狼藉ですか?お相手します。ですが、ここはお寺の境内。場所を移しましょう」
総司はゆっくりと賊の頭領らしき男の方へと歩き出した。
彼の向かう方向にいる賊は、少しずつ道を開ける。
しかし、頭領は動かない。
「池田屋で死んだ仲間の恨みだっ!」
いきなり総司に斬り付けて来た。
総司は、無造作に拝刀を抜き、抜き打ちで頭領の身体を斬り上げていた。
闘い慣れている者でないと、出来ない技である。
刀の重さを利用した『斬り下げ』ではなく、『斬り上げ』だ。
腕の膂力も必要だが、熟練されたコツが物を言う。
総司は、計らずも寺の境内を汚してしまった。
「もう此処でこれ以上の殺生はしたくありません。まだ私に殺生をさせますか?」
小さく呟いたのを聞いて、残った7人の賊は頭領の遺骸を残したまま恐怖の顔で後ずさり、やがて踵を返して引き上げて行った。
総司はそれを見届けると、懐から懐紙を取り出し、頭領の死に顔に掛けてやった。
それから拝刀を別の懐紙で拭き取り、鞘に収めた。
その一連の動作はまるで儀式のようだ。
『儀式』の間、それを食い入るように見詰める眼があった。
沙紀だった………。
『儀式』が終わった瞬間、糸が切れた凧のように、沙紀は訳の解らない言葉を吐いて、斬られた男に向かって走り出した。
この男が沙紀の夫だったのだ。
頭領の遺体に縋り付く沙紀を見て、総司は驚愕の為、絶句した。
「………私を斬って下さい。夫に言われて貴方に近付き、此処で逢う事を教えたのはこの私です。どうぞ、存分になさって下さい」
総司は哀しげに頭(かぶり)を振った。
「貴女は最後に振り返った時に涙を流した……。それでもう、充分に許されていますよ」
沙紀をそっと抱き起こした。
そして、頭領の亡骸を静かに見詰めて、
「2人で手厚く葬って上げましょう。そして、貴女は江戸へお戻りなさい。実家に戻って、彼は病死したと言いなさい」
総司は切なそうに沙紀に囁いた。

 

 

*     *     *     *     *

 

 

葬送が終わって2人きりになった、薄暗い寺の境内。
「貴女を好きになってしまいそうで怖かった……。他家の妻女になった貴女を見た時から。でも、私のような危険な男は、女性に安らぎを求めては行けないような気がします。私には遊びの恋は出来ない。だから、このまま女性の事を思う事なく、生きて行くつもりでいます。さあ、もう貴女はお行きなさい。息災でいるのですよ。私のした事は、貴女に許して貰えるような事ではないと良く解っている。私は貴女の夫をこの手で奪ったのだから。私を恨む事で貴女の生きる糧になるのなら、遠い空の下で恨んでいてくれても構わない。でも、出来る事なら、あの多摩の降るような桜の下で幸せになって欲しいな」
別れの時が来て、総司は江戸までの路銀には多過ぎる金額を懐紙に包んで、沙紀に手渡した。
そして、思いの丈を口にした。
旅姿になった沙紀は、ただ泣いている。
「どうして、総司さんはそんなに優しく出来るの?私はあの男(ひと)に貴方を売ったのよ」
「違う。貴女は本心からそうしたかったのではない。だから、出来る事ならその事は忘れて欲しい。本当だ……それが私の願いなのだから」
総司は沙紀を抱き締めた。
暫くそのままじっとしていたが、別れ難い気持ちを振り切るかのように、沙紀の身体から離れた。
結ばれる事は叶わないこの2人だ。
総司はくるりと沙紀に背を向けて、そのままでもう1度、
「行きなさい。門の外に籠を待たせていますから。信頼出来る篭かき達ですから、貴女を無事に江戸まで運んでくれる筈です」
大枚の金を渡して、篭かき達を沙紀の用心棒兼同行者になる事に同意させた。
女の1人旅は危険だが、自分が着いて行く訳には行かないからである。
元々気心の知れた相手だけに、沙紀を危ない目に遭わす事はあるまい。
「それでは、私は戻らなければなりません。どうか息災でいて下さい」
総司は振り向かなかった。
そして、そのまま足早に去って行った。
沙紀は追い掛けたいと思った。
総司の背中に追い縋りたかった。
だが、それが出来ない自分がいる。そして、総司がいる。
『おきたそうじろう』と『おさきちゃん』のままで成長していたら……お互いに素直に相手にぶつかって行けたのに。
住む世界が違ってしまったのだ。
沙紀は大津の宿に着くまで泣き続けて、篭かき達を困らせた。

 

 

沙紀は江戸に戻ると、剃髪して仏門に入ったと言う。
夫を弔う為だったのか、総司への潰えない思いを供養する為だったのかは、解らない。
やがて、あの桜の咲く場所に小さな庵(いおり)を建て、そこの庵主として一生を終えたそうである。

 

− 終わり −