静穏と夢幻への誘拐

※この作品はキリ番を5つ溜めて下さったきたこ@香野由布様に捧げます

 

 

ある晴れた春の午後だった。
渋谷にある三原署捜査一課の刑事である風見祐介はその日、久々の非番に当たっていた。
最近、停年退職でベテラン刑事が辞めて行き、そのまま後任人事が決まらないでいる為、彼らの負担はより増えて、休暇返上で捜査に当たる事もしばしばだった。
祐介は26歳。此処へ来て4年になるが、既に捜査の中核を担うまでに成長していた。
刑事としての完成を急いでいるような感じさえ周りに与えていたが、本人は全くそれを意識してはいなかった。
半月振りの休暇だった。
久し振りに少し朝寝をして、溜まった所用をこなす為に渋谷の街の喧騒に出て来ていた。
歩き回って汗を掻いたので、着ていたGジャンを脱いで腰に巻いている。
白と薄緑のストライプの開襟シャツにジーンズと言う軽装が良く似合っていた。
真っ白なウォーキングシューズで姿勢良く歩く。
長くスラッと伸びた足が機敏そうな印象を与えている。
カラーリングはしていないが、自然な、少し茶色掛かった髪を靡かせ、颯爽と風を切る。
道行く若い女性が思わず振り返る程、堂々としていて、そして、キリッとした気品のある整った顔立ちをしていた。
彼が所用を済ませ、遅い昼食を摂って店を出た処で、上品な藤色に白の小花を肩と裾に散らした訪問着姿の中年の女性とバッタリと出逢った。
着物姿が板に付いている。
「おばさん…?」
思わず声を掛けた祐介に、その女性も驚き、眩しそうに彼を見上げた。
「あら、祐さんじゃないの?」
祐介や刑事達が良く出入りしている新宿の小料理屋の女将だった。
「どうしたんです?こんな所で」
今頃はお昼の営業を終えて、夕方まで休みを取っている時間ではあるが、渋谷の街で出逢った偶然に祐介は驚いていた。
「今日は定休日よ。常連さんが警察病院に入院していてね。お見舞いに来た帰りなのよ」
「そうか……今日は月曜日だったんだ……。すっかり曜日の感覚が抜け落ちてしまって……」
祐介は頭を掻いた。
「今日は非番なの?いつもと表情が随分違うわよ。ずっと穏やかだわ」
おばさんは嬉しそうに祐介を見た。
「ええ……。おばさん、これから予定は?」
「もう帰る処よ。おばさんには此処はテンポが速過ぎて」
「じゃあ、送って行きますよ。車で来ているんです」
祐介はおばさんが大好きな笑顔を見せた。
「あんた、用事があるんじゃないの?」
「いいや、もう済ませましたよ。それに、俺だってたまの非番の日までこんな喧騒の中に居たくはありませんよ」
おばさんは祐介の眼の中にその言葉の真実を見て取ると、
「じゃあ、遠慮無くお願いしようかしら?」
と答えた。
祐介は、時間貸しの駐車場へとおばさんを案内した。
そこは三原署の緊急車両の一部を預かっている場所でもあり、使い慣れていた。
彼の愛車は深い紺色の普通車だ。
おばさんを助手席に乗せ、窓を全開にして気持ち良く滑り出した。
懐に拳銃も警察手帳も無い祐介の穏やかな表情を、隣からおばさんが眩しそうに盗み見た。
「いい顔してる。いつもキリッとして二枚目だけど、今日はとても優しい表情ね」
「おばさん、からかわないで下さいって」
祐介は少し頬を赤らめる。
思えば、おばさんの店に行く時は、いつも仕事の合間の昼食か仕事帰りの遅い時間が多かった。
こんなに明るい時間に外でおばさんと過ごしているなんて、初めての事だった。
おばさんは美人では無いが、人を安心させる顔をしている。
口は悪いが、彼女の言葉はいつだって、その優しさに裏打ちされている。
いつも威勢良くカウンターの中から迎えてくれる彼女の存在が、刑事達の心の癒し処となっていた。
どこか母親のような暖かさがあり、おばさんの店に足を踏み入れると、『帰って来た』気分になるのだった。
幼い時に海外で母親を亡くしている祐介にとっては、それまで味わった事の無い暖かさだった。
居心地の良い空間だった。
「おばさんを何時間か誘拐したくなった……」
祐介は横顔のまま呟いた。

 

 

祐介がおばさんを降ろしたのは桜が舞う新宿御苑だった。
「ちょっと一緒に桜を見ませんか?」
週初めの午後、ピークを超えた桜に群がる酔客は居ない。
祐介は程好い場所のベンチに自分のハンカチを敷いて、おばさんをそこに座らせた。
2人は並んで座り、しばし桜の舞う様に見惚れた。
「こんなにゆっくり桜を見るなんて初めてですよ。滅多に無い休みをこんな風に過ごせるなんて、おばさんに偶然出逢えたお陰だな」
祐介は柔らかく微笑った。
「いつもあんたはピリピリしているけど、今日の笑顔は写真に収めて置きたい位のベストショットよ」
おばさんが呟いた。
「私だけの心のシャッターを切ってずっと心に留めておく……」
桜を見上げて、おばさんはしみじみと言った。
「こんなおばさんと桜を見たいだなんて……あんたも変わってるわね」
笑いを含んだ声でおばさんが正直な感想を口にすると、祐介は真剣な表情で振り返った。
「おばさんとだから、見たいんですよ」
その眼は真摯だった。
「いつもおばさんの店に行くと、ホッとするんだ。さっきおばさんが言ったように俺はいつだってピリピリしている。そんな自分を忘れさせてくれるんだ。おばさんは………。自分に戻れる場所なんだ……」
祐介はフッと眼を閉じた。
「……まだ、気を許せる女の人が居ないのね。その内、そう言う存在が出来れば、私だけが特別だとは思わなくなるわよ。寂しい気もするけど、祐さんには早くそうなって欲しいわね」
おばさんは祐介が実は家族の温もりに飢えている事を痛いほど知っている。
「でも、今は祐さんとこうして桜を見ている。その事だけで私は幸せだわ」
おばさんは夢見る少女のような瞳で降るような見事な桜を見上げている。
「そいつは良かった。おばさんを誘拐した甲斐があったな……」
祐介はふと立ち上がり、近くの自動販売機でコーヒーを2本買って戻って来た。
「衝動的犯行だったから、気の利いた物を用意出来なかった。ごめん」
そう言いながら、暖かい缶を手渡した。
「桜の下で祐さんと飲むコーヒーなんて乙な物じゃない」
おばさんは嬉しそうに答えを返した。
「あんたは幸せにならなくちゃ。あんたのお母さんや私の夫のように早く逝ってしまってパートナーを悲しませないようにね。危険な仕事だけど、のめり込み過ぎないのよ」
おばさんは刑事だった夫を殉職と言う形で亡くしている。
突然祐介の頭をそっと引き寄せた。
「あんたのその笑顔、最高よ。素敵だわ、とっても………」
夕焼けが少しずつ忍び寄って来て、2人を照らし始めていた。

 

 

− 終わり −

●蛇足● 祐介が過酷な暗い運命に落ちて行くのは、この年の11月。秋も深まった頃です。
       おばさんの心の中にはずっとこの時の彼の笑顔が消えずに残っているのです。
       おばさんのキャラクターは祐介よりも早く、16歳の夏に出来ていました。
       (祐介は18か19の頃のキャラです。おばさんのデビューは別の作品だったのです)
       ですが、当時からおばさんは私の代弁キャラでした。
       威勢の良い処は似ていませんが、彼女は私自身でもあります。
       だから、祐さんの笑顔は彼女の物=私の物なのです。(^^ゞ
       本編『DETECTIVE STORY』にも勿論彼女は登場しておりますが、宜しければ
       『回想の夜』と言う最近の短編作品の方も合わせてお読み戴けると嬉しいです。