tears for you

 

(1)

 

ロック系の人気アーティスト『ALPEE』のメンバーの1人である、高根沢紀彦(たかねざわ・としひこ)が、最近のステージで情感たっぷりに歌い上げている、CD未収録の『tears for you』と言う曲には、何か謂れがあるらしい、と言う噂がファンの間で実しやかに囁かれている。
『you』が誰なのか、と言う事はファンならずとも気になる処だが、それについて語るには、時間を5年程巻き戻して、高根沢紀彦29歳の秋にタイムスリップしなければならない………

 

 

*   *   *   *   *

 

 

高根沢は疲れ切った表情で、マネージャーの棚の上が手配したタクシーに彼と乗り込んだ。
「高根沢さん、時間は余りありませんけど、少しでも眠って下さい。到着したら起こしますから」
棚の上が運転手に今日のコンサート会場・NKHホールの名を告げた後、高根沢に声を掛けた。
高根沢は頷いて、『悪いな、そうさせて貰う…』と言ったきり、眼を閉じてしまった。
昨晩から夜を徹して続いていた、女性アイドル歌手・真山由紀のレコーディングが捗っていないのは、高根沢のその様子から充分に読み取れる。
彼は事務所を通してその歌手のアルバム・プロデュースの仕事が持ち込まれた時、真山の存在は既に知っていた。
何度かテレビの音楽番組で一緒になった事があったからだ。
他のアイドル歌手はどれもこれも個性にも精彩にも欠け、似たような物だから、高根沢も余り記憶に留めてはいなかったが、初めて真山の曲をラジオで聴いた時は、その声に魅力を感じた。
だが、テレビ局のスタジオで高根沢が見た時は、なぜか真山はいつも歌入りのオケを流し、口パクで歌っていた。
この機会にヴォーカルを鍛え直してやろう、と高根沢は思った。
それに耐えられれば、彼女は大成し、長くヴォーカリストとしてこの世界で生きて行く事も夢ではないだろう。
折角の特徴のある声を生かす事が出来なければ、真山は他のその他大勢達と一緒に使い捨てられて行く運命にある。
高根沢は『ALPEE』のコンサート・ツアーやレコーディングの合間を縫って、アルバム収録曲の3分の2の作詞・作曲と、全曲のアレンジを手掛けた。
しかし………今の処、その彼の努力は無と化している。
彼自らギターまで弾き、いわゆるオケ録りが終わった処で、いよいよヴォーカリストの登場だ。
そこから先が高根沢を心身共に疲れさせる展開となる。
歌えない、のだ。
高根沢が苦心惨憺して彼女の声に合わせて生み出したメロディーが。
譜面は、読めればそれに越した事は無いが、読めなくても仕方が無い、と高根沢は思っている。
だが、問題はそんな事ではなかった。
高根沢は譜面だけではなく、彼自身のヴォーカル入りのデモテープも相手側のスタッフに渡している。
テープを良く聴いて歌い込んで来れば、歌える筈である。
Keyが合わないと言う訳ではないのだ。『歌えない』で済まされては困る。
それ処か、『簡単なメロディーに変えてくれ』とまで言われては頭を抱えたくなってしまう。
彼にしてみれば、大して難しいメロディーではないのだ。
『ALPEE』の曲程、複雑なメロディー展開にはしていない。
これまで甘やかされて来た温室育ちのアイドル歌手は、半ベソを掻いている。
これでも真山はこの業界に入って、今年で5年目に差し掛かっているのだ………
彼女のスタッフ達は『大物』の高根沢が心証を害するのではないかと、妙な気を遣ってオロオロしている。
高根沢は突然物凄い疲れを感じて、小さく首を振り、密かに溜息を衝いた。
それに気付いた棚の上が休憩を提案し、高根沢は彼とロビーに出た。
「高根沢さんが、彼女がテレビで歌う時はいつも口パクだ、と仰っていましたけど、やはりこう言う事になってしまいましたね……どうします?この仕事、降りますか?」
棚の上が、スタジオ内の自動販売機で購入したコーヒーを高根沢に手渡しながら、そっと囁いた。
「いや、1度受けた仕事だ。降りる訳には行かないさ」
高根沢はロビーのソファーに深く沈み込んだ。このまま溶けてしまいそうな気がする程の倦怠感に包まれている。
「高根沢さん、大丈夫ですか?少なくとも今日の処はもう止めにした方が………こっちだってコンサートがあるんですから」
「今、何時?」
「えーと…午前4時を回った処ですね」
「何だ、それなら俺達のレコーディングよりもマシじゃないか?あの娘もスケジュールが詰まっているんだろ?」
「私は、こっちが向こうのスケジュールに合わせてやる事は無いと思いますけど」
棚の上は、そんな事よりも高根沢の体調の方が心配だ、とばかりに食い下がる。
「根比べだよ。歌えるようになるまで、歌わせる。絶対に曲は変えないつもりだ……あの娘は、やれば出来るの に、その努力を怠っているだけだ。今までは甘やかされて来たから、それでも通って来た。しかし、このままではもうこの世界では生き残れない、と言う事を本人だけでなく、スタッフにも解らせてやるつもりだ。例えその為に多くの時間を費やし、アルバムの発売が遅れようとも構わない。商業ベースでしかレコードを作れないスタッフと組んでいたのでは、彼女がああなるのも仕方が無いよ。あちら側のスタッフと衝突もあると思うけど、余り気にしなくていいから」
高根沢は棚の上に疲れた微笑を向けた。
彼は既に5人組のバンド『AFFECTION』を発掘し、成功させている。
『AFFECTION』は見事に高根沢から自立して行った。彼らを世に出して以来、高根沢はプロデューサーとしての手腕も高く評価され、何人かのアーティストのプロデュースも手掛けて来た。
だから、彼の『眼』の確かさには、周囲から全幅の信頼が寄せられている。
今度の真山由紀も、高根沢は買っている。そうでなければ、彼は最初からこの仕事を引き受けたりはしなかっただろう。
棚の上は、解りました、と頷いた。
「でも、無理はしないで下さいよ。『ALPEEの高根沢さん』は1人しかいないんですからね。坂羅井さんや作崎さんだけでは、決して『ALPEE』じゃないんです」
「解ってるよ。お前こそ少し家に帰って寝て来いよ。気の遣い過ぎで参ってしまうぞ。大丈夫、リハーサルには間に合うように会場に行くから、心配するなって」
高根沢は立ち上がりながら言った。
「駄目です。高根沢さんだけを矢面に立たせるような事は出来ません!私もスタジオに戻ります」
生真面目過ぎる程の棚の上に、高根沢は苦笑して見せた。可愛いマネージャーである。
高根沢はスタジオに戻ると、サブを通り抜けて、そのままブースの中へと入って行った。
ブースの中の真山が、高根沢の顔色を窺うような視線を上げた。
高根沢はそれを無視し、彼女の眼の前で完璧に自分の作った歌を歌い始めた。
彼女のスタッフがそれを聴いて、遮るように言った。
「その曲は後回しにしましょう。歌入れをしなければならない曲はそれだけじゃないんですから」
「使い捨てされたくなかったら、そう言う姿勢は止める事です」
高根沢はやんわりと言ってから、真山に一緒に歌うようにと言った。
彼は付きっきりメロディーをコーチした。
しかし、彼の骨折りは報われず、何の成果も出ないままに、時計は朝の9時を指していた。
アイドルは次のスケジュールの為に、仮眠を取りに帰って行った。
高根沢はその後も昼過ぎまで、先方のスタッフ達と喧喧囂囂話し合い、こちらも意見の一致を見られぬまま、今晩『ALPEE』のコンサートが行なわれるNKHホールに向けて出発したのである。

 

 

「高根沢さん、着きましたよ」
棚の上に声を掛けられて、高根沢はその白い顔を上げた。まだあれから10分も経っていない。
タクシーを降りると、日中の太陽が眩しく彼の眼を射った。
思わず右手を翳して光を遮ろうとした時、彼の視界に、急発進してこちらに猛スピードで向かって来る黒い車が飛び込んで来た。
高根沢は、領収書を受け取ってタクシーから降り掛けていた棚の上を、咄嗟にタクシーの中に押し戻して、自分は暴走車が来る方向とは反対の駐車場の方へと全速力で走った。
直感的に狙いは自分だと解ったのである。
走りながら、ポケットからハンカチを取り出して、それを口の中に押し込んだ。
高根沢は足が速い。しかし、今日は寝ていないせいか、思い通りには足が動かない。黒い車はすぐ後ろまで迫っている。
遠くで棚の上が『高根沢さんっ!』と叫んだ。
高根沢は、ままよ、とばかりに駐車場の車の間に転がり込んだ。
その時、鈍い音がして、棚の上には高根沢が跳ね飛ばされたように見えた。
車はそのまま、速度を落とさずに走り去った。
棚の上には、その車のナンバーを確認している余裕など無かった。
「高根沢さんっ!!」
血の気が引いた。
それから棚の上は転がるように高根沢の元へと走った。
棚の上の眼に血の色が映った。彼には実際以上に多く見えた。
「高根沢さんっ」
彼が高根沢を抱き起こそうとした時、高根沢は自分で事もなげに起き上がった。
棚の上の頬を涙がポロポロと伝わり落ちた。
「馬鹿だなぁ。何泣いてんだよ」
高根沢がハンカチを噛んだままで言った。
血が流れていたのは、右足の脹脛からだった。
棚の上は自分のハンカチを取り出して、傷口を縛った。
「大丈夫だよ。大した事はない。咄嗟に両腕と頭は庇ったし、舌を噛まないようにしていたからな……コンサートはちゃんと出来るよ」
高根沢は棚の上を安心させる為に、微笑んで見せた。
「すみません。こんな時の為に私は高根沢さんの傍を決して離れないようにしていたのに………」
棚の上は高根沢が立ち上がるのに肩を貸しながら、まるで自分に責任があるかのような言い方をした。
「どうしたんだ?………お前、何か俺に隠しているのか?」
高根沢が眉を顰めた。

 

 

「高根沢!どうしたんでいっ!」
棚の上に支えられて高根沢が楽屋入りをすると、ギターを抱えていた私服の作崎鴻助(さくざき・こうのすけ)がすぐに彼の怪我に気付いて飛んで来た。
「ヤギちゃん、救急箱持って来てっ!」
坂羅井正流(さからい・まさる)はスタイリストの八木沢に指示をしながら、素早く棚の上の反対側から高根沢を支え、殆ど無理矢理にソファーに彼を横たえた。
「大袈裟だなぁ、坂羅井は………大した事は無いよ」
「黙って!」
坂羅井は起き上がろうとする高根沢を押さえ付けて、テキパキと応急手当を始めた。
傷口を縛っているハンカチを解くと、坂羅井は救急箱から鋏を取り出した。
「高根沢、悪いけど下手に捲り上げると傷に貼り付く可能性があるから、膝から下の部分を切り落とすよ」
「構わないよ。どうせもう履けないよ」
「じゃあ、高根沢。うつ伏せになって」
高根沢はもう、坂羅井のペースに従うしかない。大人しく言う通りにした。
「ねえ、坂羅井って癌研じゃなかったかい?」
作崎が怪訝そうに訊いた。
坂羅井は、彼ら2人と昭和学院大学で同期生なのだが、実はその前に、医大を卒業している。
作崎の言う通り、癌の研究をしていたのだが、事情があって医者への道を断念した。
そして、医大卒業後に普通の大学に入り直し、作崎と高根沢に出逢った。
だから、他の2人よりも4年長く生きている。
「関係ないの。応急手当は基本中の基本でしょ!………あれっ?高根沢、これは結構深いよ。どうしてこんな怪我をしたの?」
坂羅井の問いには、棚の上が代わりに答えた。
「実は謎の車に襲われて、バンパーに足を引っ掛けられたんです。でも足の速い高根沢さんだからそれだけで済んだんで、私だったら多分………」
「襲われた?それで、警察には連絡したの?」
「いえ、まだ………」
「早く連絡した方がいいよ!それに、高根沢、これはちゃんと医者に診せて、縫合して貰わないと駄目だよ。こんなに深い傷なのに、良く歩いて来れたね。とにかく止血の処置だけはしておくから、棚の上と一緒にすぐに病院 に行って来て。この近くだったら、渋谷総合病院がいいかな?あそこの外科にわたしの友達の真田が勤務してるから、電話しておくよ」
「無理だよ、時間がない……」
高根沢は坂羅井に手当てして貰っている内に緊張が緩んだのか、さっきよりも痛みを覚え始めたようだ。うめくように言った。
「このままステージに上がるって言う方が無理な話でぃっ!」
作崎が悲鳴のような声を上げた時、楽屋の外の通路が少しざわめいた。
ノックの音と共に、ドアが外から開かれた。
刺客か?
一瞬の緊張が走り、棚の上は咄嗟に高根沢の前に立ちはだかった。
しかし、入って来た2人の男に殺気は感じられなかった。
「ご心配なく。三原署の者です」
2人は警察手帳を提示した。どうやら、現場に居合わせたタクシーの運転手が通報したらしい。
突然現われたのは、場所柄を考えて、赤色灯とサイレンを使わずに隠密裏に駆け付けた為であった。
40歳位の男が部長刑事の沢木と名乗り、若い方の……高根沢や作崎より2〜3歳年下に見える、背の高い刑事が風見と名乗った。
風見祐介は、彫りの深い美しい顔立ちと、モデル顔負けのスタイルを持ち、顔色は蒼白かった。
一見、高根沢のルックスに似ている。どう見ても刑事には見えない。
坂羅井と作崎のみならず、高根沢自身もハッと驚いた。
「驚いたよ〜ん♪高根沢と雰囲気が似てるね♪」
坂羅井は一瞬事態を忘れてしまったようである。
「処で怪我の具合はどうですか?まだ見たところ医師には診せていないようですが……」
祐介が事件の事情を訊く前に眉を顰めて訊ねた。
尤も、先にタクシーの運転手から現場での様子は既に聞き出してあるのだろう。焦って話を急ぐ必要は無かったに違いない。
「傷口が意外に深いの。縫合しないと駄目だね。これからわたしの友達の医者に診せようと思うんだけど」
坂羅井が祐介の問いに答えた。
「坂羅井……時間が無さ過ぎる。開演を遅らせたくないんだ。遠くから来てくれているファンの事を考えると、終演まで見られなくなったら可哀想じゃないか」
高根沢が起き上がって訴えた。
「お気持ちは解りますが、出来れば今日のコンサートはお止めになった方が………生命を狙われているんですよ、高根沢さん」
沢木が穏やかな声で言った。
「外に出るのは危険ですから、警察病院から腕のいい外科の先生を呼びましょう。とにかくまずは怪我の手当てが先決です」
祐介がそう言いながら、外の通路にある公衆電話へと向かう為に楽屋を後にした。
彼はすぐに戻って来て、それと入れ違いに棚の上が、
「私も社長に連絡をして来ます」
と出て行った。
祐介はその棚の上を見送って、小さく呟いた。
「彼は何か知っているみたいだ………」
高根沢がそれを聞いて少し眉を顰めた。
「高根沢さん、何か生命を狙われる心当たりがあったら、教えて下さいませんか?」
沢木は八木沢が勧めてくれたパイプ椅子に座ると、高根沢に訊ねた。
「いや……人に恨まれるような記憶は………確かにプロデュースの仕事の時には厳しい態度を取る事もあるけ ど……」
「でも、高根沢。それは相手の為を思って、長い眼で見た上でやっている事じゃん。みんなそのお陰でイメージチェンジ出来たり、高い評価を得られたりしてるんだし、感謝こそすれど恨んだりはしねぇんじゃねーかな?……おいらはそう思うけどねぇ」
「わたしも作崎の言う通りだと思うな♪……高根沢がいたからこそ、みんな実力以上の物を出せたんだから。考えられるとしたら、高根沢の才能に対する妬みとかじゃない?」
言葉少なな高根沢を補足するように横から作崎と坂羅井が言葉を挟む。
そこに元気の無い棚の上が戻って来た。

 

− (2)へ続く −