時移ろい去りて

 

※この作品は45000番をGETされたnekoさんから戴いたリクエストに基づき
 書かせて戴きました。心を込めて、nekoさんに捧げます。

 

 

祇園会所はざわめき立っている。
刀の目釘を確かめる者、柄に布を巻いている者、頭に鉢金を着けようとしている者、鎖の着込みを身に付けて、その位置を神経質に何度も調整している者。
三十余名の若者がそれぞれに闘いの為の支度に余念が無い。
余り私語を交わす者は無く、いろいろな物音が響くのみだが、その喧騒が緊張感を増幅させる。
そんな中、剣道の胴に皆と同じ浅葱色の隊服を纏っただけの軽装で支度を済ませ、静かに瞑目している若者がいた。
年の頃は二十歳前後か。
彼の周囲だけが違う空気を漂わせていた。
落ち着いている………
そこだけが時を止めたような、そんな雰囲気だ。
闘いを前に、余程肝っ玉が座っているか、或いは無の境地に達しているのか、どちらかであろう。
そんな青年を先程からじっと見詰めている者がある。
大将と思しき威厳たっぷりのいかつい顔をした男の横に、眉目秀麗、整った役者のような顔の男が座っている。
恐らくこの組織のNo.2であろうかと思われるこの男が、突然先程の若者を呼んだ。
「総司!ちょっと来い!」
呼ばれた若者はパッと眼を見開いた。
涼やかな瞳を持っている事が解る。
彼を呼んだ男とは違い、月代を剃り、紫色の元結で爽やかに結った髪が、彼が立ち上がると同時にサラリと揺れ、弧を描くようにして、再び綺麗に刷毛先を揃えた形に戻った。
「何です?」
2人の前に行儀良く膝を揃えて座った、総司と呼ばれた若者は、にっこりと微笑んだ。
全く気負いの無い様子だ。
「お前、やけに赤い顔をしているじゃねえか」
眉目秀麗が顔に似合わぬ乱暴な言葉で訊いた。
「そりゃあね、土方さん。私だってこれから大捕物が始まるって時には興奮ぐらいしますよ」
「そうは見えなかったがな。落ち着いている。おめぇ、どこか体調を崩してはおらんのか?」
土方が重ねて訊ねる。
「気のせいですよ。高揚する気分をああして落ち着かせていたのです。総ちゃんはまだ余り修羅場を潜り抜けていませんからね。もう怖くて怖くて……」
総司は快活に笑った。
「馬鹿言いやがる。おめえの剣の腕は誰もが恐れていると言うのによ、全く……」
土方歳三は沖田総司にすっかり騙された。
この時、総司の身体に巣食う得体の知れない魔物が蠢き始めていた。
総司は自身の身体の不調からそれを感じ取りつつあったのだ。
『闘いの中で死ねるのなら、それでもいい……』
この闘いの前に総司はそう淡々と考えていた。

 

 

元治元年、夏………のちに『池田屋事変』と呼ばれ、新撰組の名を世に知らしめる事になる事件が、今まさに始まろうとしていた。

 

 

その闘いたるや、激しいなどと言う形容では表わし切れない物だったと言えよう。
過激派浪士達も、新撰組も、それぞれ多くの血を流した。
そんな中、違う種類の血を流した者がいる。沖田総司だ。
彼は白兵戦の中で、八面六臂の大活躍をした。
充分に新撰組隊士として働いた。
彼の働きは充分過ぎる程で、1人で2人分以上の仕事をこなした。
しかし、その無理が彼の身体に祟った。
ついに魔物がムクムクと腰を上げ、活動を始めたのだ。
闘いの中で総司は激しく血を喀いた。
別働隊の土方が駆け付けたのは、総司が崩折れるその瞬間だった。
幻を見ているような錯覚に襲われた土方であったが、すぐに我に返った。
眼の前で崩れ落ちたのは確かに『彼の』総司だ。
「総司っ!どうした?!斬られたのかっ!?」
斬られたと思うのは、無理もない。
総司のその唇からは大量の紅い血が零れていたのだ。
涼やかな瞳は閉じられ、抱き起こした総司からは全く生気が感じられない。
土方の全身に大きな喪失感が襲い掛かった。
「総司っ!!」
哭くような叫び声が喉をついて出た。
「……あ、あ、私は……」
意識を取り戻した総司は、眼を見開いた。
「こ……近藤先生は?!」
「心配するな、大丈夫だ。それより、お前……なぜあの時、黙っていた?解っていたんだろう?」
土方は優しく総司に訊ねた。
「ごめんなさい……不調は感じていたけれど、こんな事になるとは……思っていなかった……」
総司は唇を噛み締めた。
こんな形で病いが露見するなんて。それも土方さんの前で。
「血を喀いたな。こんなに高い熱なのに、それを押して無理をするから……」
土方は総司の肩をギュッと抱き締めた。
「済まん……無理をさせた。いくら人員不足だったとは言え……お前は休ませるべきだった。巡察で疲れているのは知っていた筈なのにな……」
「土方さん……そうやって自分を責めないで下さい……ほら、まだ近藤先生の気合が聞こえる。行きますよ!……まだ、私は闘える」
総司はそう言うと、力を込めて土方の手を振り払い、自力で立ち上がろうとした。
それは彼に取っては、せめてもの意地であり、土方に心配を掛けまいと言う気持ちの表われだった。
「総司、もういい。後は他の者に任せろ。もう斬らなくていいんだ。全部生け捕りにする。そろそろ会津の連中も 外を固める頃だ」
「土方さん………」
「新撰組の手柄だぞ。お前は良くやった。だから、今はもういい。療養して快復に努め、元通り仕事に復帰する 事。今のお前の使命はそれだけだ。いいな?」
「…………………………」
総司は答えなかった。その言葉を聞き終える前に、土方の胸に倒れこんだからである。
「全員生け捕れっ!1人も逃すなっ!!」
土方は意識を失った総司を抱いたまま、大声で隊士達に下知した。

 

 

総司が隊務に復帰するまでに1ヶ月の期間を要した。
土方がなかなかそれを許さなかったからである。
池田屋からの引き上げの時は、意地で屯所まで歩き通した総司であったが、その後3日3晩、眠り続けた。
会津藩から派遣された隊に往診に来た医師は、外科が専門だった為、総司に熱冷ましの薬を与えたに留まった。
業を煮やした土方は、忙しい中、自ら評判を聞き歩き、これと決めた腕の良い医師に往診を頼んだ。
新撰組と聞いて二の足を踏むような医師では、土方の眼鏡には敵わない。
土方の予想通り、診断は『労咳』であった。
この時代には不治の病いと言われていた。
血を喀いて病み衰え、終いには病気の伝播を恐れて、家族にまで見放される。
労咳とはそんな病いだ。
土方は唇を噛んだ。近藤だけにはこの事を打ち明け、総司の今後について、深く話し合った。
多摩に返して療養させてやりたい。
天然理心流を継がせてやれば、総司の生計の道もある。道場も残る。
しかし………新撰組副長助勤・沖田総司の名前は既に京の街で畏怖されるべき存在になり始めていた。
池田屋で近藤と共に斬り込み隊長を勤めた総司である。
その総司が戦列を、隊を離れる。
それは大きな痛手であった。
「総司を隊の中で療養させて、巡察などの日常の勤務から外してはどうだろう?体調の良い時だけ大きな出動 に出して、後は剣術師範の仕事を中心にするのだ」
近藤はそう言った。
だが、土方の意見は違った。
「総司の奴は、嫌がるだろうよ。今まで通りに仕事をしたがるさ。周囲の者には病いの事を隠し通してでも、そうするだろうな」
土方は苦しげだった。
「俺だって多摩に返したいさ。だが、総司に傍にいて貰いてえ。そいつも事実さ。我儘だと解っているがな」
「歳よ……そうは言うがな。総司を死なせてえのか?」
「そうじゃねぇ。だがな、勇さん。俺は別の意味でも総司を死なせたくねぇのさ。それに病いではなく、いつ斬り死にしてもおかしくねえ新撰組じゃねぇか……総司がしたいようにさせてやってくれねえか?勇さん、この通りだ」
土方は近藤に頭を下げた。
本人が療養する、と言ったらその時はその時だ。そうさせてやろう。
2人は総司が眠っている間にそう話を決めていた。

 

 

1ヶ月後、思いの外、元気な様子で総司は巡察に出発した。
そんな様子を土方が複雑な思いでそっと見守っている。
江戸を出る時あれほど元気だった総司が、時の移ろいの中で病いを得て、また表面上だけは元気そうに働いている。
いつかお前を失う日が来ると言うのか………
誰にでも、それだけは平等な時の流れ。
どうか総司にだけは緩やかであって欲しいと言うのは、土方の切なる思いである。

 

 

− 終わり −