夢追い蜻蛉追い

 

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秋の気配が吹く風の中に感じられるようになったある日、近藤勇は出稽古の伴と称して10歳の沖田宗次郎を日野の佐藤道場へと連れ出した。
宗次郎の歩幅に合わせて進む為、いつもよりも早発ちをした。
眠たげな宗次郎を連れての道程は、勇にとっては楽しい物だった。
弟が出来たような良い気分だ。
少しずつ覚醒して行く宗次郎と、途中トンボを追い掛けたり、川辺に駆け下りたり、と寄り道もした。
小童のように少しだけはしゃいでみた。
その勇は今年20歳。近藤道場の跡を継ぐ事が決まっている。
既に近藤周斎の養子になって、近藤勇に改名もしていた。
齢9歳にして、口減らしの為試衛館の内弟子となった沖田宗次郎を、この勇は実の弟のように可愛がった。
周斎の嫁に1日中こき使われている宗次郎を哀れに思い、彼は久し振りに多摩の空気を吸わせてやるつもりでいた。
暦で言えば既に『冬』であるが、現代の感覚で言えば『秋』と言った方がしっくりと来る、そんな季節だ。
暑さも落ち付き、丁度出歩くには良い頃合である。紅葉が始まっていたらもっと良かったかもしれない。
途中で頃合いの良い岩に座って、使用人に頼んで作らせておいた握り飯を開いた。
心地好い風が2人を寛がせた。
「宗次郎、沢山喰らって早く大きくなれよ」
やせっぽちの宗次郎の為に、白飯で作らせた握り飯。
小さ目の物が5つも並んでいる。
数を多く食べさせて、自信を付けさせようと言う勇の計算だった。
勇が手にしている握り飯の大きさの半分位だったが、宗次郎は早朝から歩き続けてお腹を減らしていたようである。
彼に宛がわれた分はさも美味そうに全部平らげた。

勇は先程川辺に下りた時に竹筒に水を汲んでおいたので、それを宗次郎に飲ませてやる。
「おう、全部平らげたな。良くやった!宗次郎は絶対に強くなるからな。まずは身体から鍛えて置こうな」
宗次郎の背を軽く叩くと、勇は立ち上がった。
「よし、行くぞ!」

 

 

日野の佐藤道場へは、夕方前には到着した。
「やあ、こんにちは。世話になります。歳はいますか?」
勇は出迎えた当家の嫁おのぶに開口一番声を掛けた。
『歳』とは、おのぶの弟であり、勇とは義兄弟の契りを交わした友の土方歳三の事である。
「昼過ぎから薬箱を背負ってブラッと出掛けましたわ」
勇の足を漱ぎながら、おのぶは心配気に呟いた。
齢19にもなって、落ち着かない生活をしている弟を心底心配している様子だった。
「そちらの可愛いお客様は、もしかしておみつさんの所の?大きくなって……」
おのぶが問い掛けた時、宗次郎はすぐに寄って来て、
「お久し振りです、沖田宗次郎と申します。宜しくお願い致します」
としっかりとした口調で挨拶をした。
「さすが、武家のご子息。しっかりとしたお子ですこと」
おのぶは袂を口に当てて、おほほ、と笑った。
「こんなに小さいのに、親兄弟と別れて、大人ばかりの道場に内弟子として入るなんて……可哀想に」
笑っていた筈のおばちゃんが急に涙ぐんだので、宗次郎は驚いてしまった。
「あの…私、何か行けない事を言ったでしょうか?」
おのぶは慌てて笑顔を作った。
「まあ…此処では大人に気を遣わなくていいのよ。宗次郎くん、おはぎを作ってあるから、勇先生と一緒にお上がりなさい」
勇以外の『大人』から、久々に受けた優しい言葉だった。
宗次郎は嬉しくなって涙が出た。
おはぎをご馳走になった後、勇が意外な事を言った。
「歳と逢わせたかったんだが、いねぇんじゃあ仕方ねぇ。宗次郎、今夜は姉上殿の家に行って泊まって来い。
 明日の昼までに此処に戻って来れば良い。此処からなら一人でも帰れるな?」
此処の道場には姉のおみつの婿である沖田林太郎に連れられて何度か来た事がある。
「勇さん、送って行って上げないのですか?」
「俺が送って行けば、おみつさんも宗次郎を家に泊めにくくなります」
勇流の思い遣りだった。
こうして、日が暮れない内に、と宗次郎は佐藤道場から送り出された。

 

 

「あなたはもうこの家の子じゃありません。帰りなさい。あなたは試衛館の内弟子の筈。勇先生のお供で来たのなら、先生と行動を共にするのが当たり前です」
姉のおみつはぴしゃりと戸を閉めて、二度とは開けてくれなかった。
その扉の向こうで啜り泣きの声がする。
どうして、おみつ姉さんは久し振りに帰って来た弟を家に入れてくれないの?
どうして、泣いているの?
私が何か悪い事をしたの?
私は嫌われていたの?
宗次郎は佐藤道場へトボトボと戻るしかなかった。
辺りは薄暗くなって来る。
いろいろな事を自問自答しながら、宗次郎は暗澹たる思いを抱えて、足取りも重く、先へと進んだ。
佐藤道場から来る時は、飛び跳ねたくなる気持ちを抑えるのに苦労したものだが、今となっては、勇が土産にと持たせてくれた名物の団子がただただ重く感じられた。
暗闇と疲労が宗次郎から道の感覚を奪った。
もう佐藤道場へ辿り着いても良さそうな時間だと言うのに、宗次郎は未だに歩き続けている。
自分の居場所など見当も付かなくなっている。
ついに宗次郎も半べそを掻き始めた。
もう右も左も解らない。
往来で膝を抱え、座り込んでしまった。
姉のおみつが見たら、武家の子が、と嘆くに違いない姿だった。
その時、突然、まるで仔猫にするような所作で宗次郎の襟を引っ張って、ひょいと持ち上げた者がいた。
「何だ、このガキは。何でこんな時間にベソ掻いてうろついてやがる?」
背中に大荷物を背負った尻端折りをした二十歳前後の粋な男が、宗次郎の涙目を覗き込んでいた。
「…………………………」
宗次郎は驚いてしまって、最初は声も出ない。
いきなり持ち上げられたのだ。吊るされたままの状態で漸く宗次郎は言った。
「あの……下ろして戴けませんか?」
こんな時も言葉遣いは丁寧である。
尻端折りの男は、ひょいと宗次郎を道に下ろした。
「おめぇ、どこに行くつもりなんだ?」
宗次郎の眼の高さに座り込んだ男は訊ねた。
「お大尽の佐藤様の所に行きたいのですが、道が解らなくなって……」
「え?おめぇ、何だって佐藤家へ?」
「近藤先生のお供で来たのです……」
宗次郎は涙を拳で拭った。
どうやらこの尻端折りの男は救いの神らしい。
「ほぉ〜!じゃあ、おめぇが宗次郎か」
宗次郎は男の意外な言葉にきょとんとした。
「俺は土方歳三だ。覚えておけ。佐藤道場なら今から俺も行く処だ。連れてってやるから安心しなっ!」
歳三は乱暴な言葉で言うと、路上に座ったままの宗次郎を引っぱり上げた。
人攫いかと、一瞬疑った宗次郎だが、今日の道程で勇から聞いた名前と彼の名乗りが同じである事に気付いた。
「あの……『石田村のバラガキ』さんですか?!」
宗次郎の眼が輝いている。
どうやら今日の道程で勇から話を聞いている内に、土方歳三と言うこの眼の前にいる男に引かれていたらしい。
「ケッ!勇さん、碌なこたぁ言ってねえな」
ブツブツと呟いて少しクサクサした表情になった歳三だが、まあいいさ、とばかりに、フンと鼻で笑って、宗次郎に向き直った。
「さっさと付いて来いっ!置いて行くぞ!!」
悪態を衝きながらも、歳三の顔は笑っている。
しかし、この闇では宗次郎にその表情までは掴み取れない。
「はいっ!」
震え上がるように良いお返事をして、宗次郎は歳三に駆け寄った。

 

 

「そうか……悪い事をした……」
疲れ切って夕食も摂らずに眠ってしまった宗次郎の寝顔を腕を組んで見下ろしながら、勇が呟いた。
宗次郎は歳三によって、無事に此処に送り届けられた。
「俺は宗次郎とおみつさん、双方を傷付けてしまったのだな……」
勇は悄然としている。
おみつの辛い気持ちも理解出来る為に、この男は苦しんだ。
「まあ、いいじゃねえか。おめぇが悪いって訳じゃねぇ。良かれと思ってした事だ。それにしても驚いた。
 こいつ並のガキじゃねぇぜ。ベソは掻いていやがったが、俺様と眼を合わせて怖気付かなかったガキはこいつが初めてだ。『下ろして戴けませんか?』って言いやがった」
歳三は酒を飲んでいる。
勇にも注いでやりながら、2人静かに語り合う。
「俺が見込んだだけの事はあるだろう?」
勇が含み笑いをした。
「宗次郎はきっと強くなる。お前も俺と一緒に見届けてみないか?」
「それは、何か?俺も試衛館に来い、と言う誘いか?」
「まあ、そう言う事だ。今すぐにとは言わんがな」
「考えておく」
「なあ、歳よ。俺とお前は義兄弟の杯を交わした間だ。俺が弟のように可愛がっている宗次郎はお前にとっても、弟同様だとは思わねぇか?」
「フン、まあそれも悪くねぇな。俺は末っ子だしな。正直言って、こいつ、可愛いと思ったぜ。可愛いと言うよりはいじらしい、と言う感じかな……」
歳三は杯を舐めながら、頷いた。
「ああ……いじらしいさ。健気で、放ってはおけなくなるんだ。良い事も悪い事もみんな教えてやろうと思うんだよ」
「悪くねぇな……」
この日、宗次郎の枕元で、2人の語らいは遅くまで続いた。

 

 

翌朝……。朝稽古を終えた勇は、二日酔いの頭を抱えてまだ寝ていた歳三を起こし、宗次郎を連れて近くの川へとやって来た。
午後からの稽古までにまだ間がある。
宗次郎は、蜻蛉を追い掛けて川原を元気に走り回っている。
のどかな光景だ。
無邪気な少年はすっかり自然に溶け込んで、それらと対話しているようだ。
その姿を勇と並んで腰掛けてのんびりと眺めながら、歳三は呟いた。
「あいつがああして蜻蛉を追い掛けているように、俺は夢を追っている。勇さんも同じだろう?いつか、宗次郎を含めた3人で、どでかい事をしてやろうじゃねぇか?」
歳三は宗次郎を弟分として既に認めていた。
「そうだな……いつか、きっと……」
この時、歳三にその『どでかい事』の具体的構想が有った訳ではない。
この3人が10年後に京洛にその名を轟かせる事になろうとは、本人達でさえ、知る由も無かった……。

 

 

− 終わり −