夢枕の向こうに…

 

「待って下さい!貴女のお名前は?」
病床でうなされながら、総司が叫んだ。
まだまだ桜冷えのする明け方に、その蒼白い顔は玉のような汗に濡れている。
部屋には誰も付き添う者は無く、彼の声を聴いて駆け付ける者も無い。
此処は、ある植木屋の離れ。
彼、沖田総司の終焉の地に選ばれた場所である。


総司はハッと夢から覚めて、寝床から勢い良く飛び起きた。
長い療養生活で弱り切った身体には、そんな動きでさえも、負担になる。
同時に冷たい空気も吸って、総司は込み上げて来る物に胸を震わせた。
込み上げた咳は別の物も伴って、彼を苦しめた。
慣れているとは言え、喀血を繰り返す毎に、彼の身体は益々蝕まれて行く。
肺腑はボロボロになり、最近では血を喀くと同時にその組織らしい欠片も喀き出される事がある。
総司は床の上で、身体を折り曲げ、ひたすら喀血が収まるのを待った。
あと小半時は彼の身の回りの世話をしてくれる婆様はやって来ないだろう。
喘ぎながら、総司は彼女が立っていた縁側の方を無意識の内に探した。
だが……障子は閉め切ってあり、縁側を見る事は出来ない。
そこに居るのは、ただ漆黒の毛を持つ黒猫のみだった。
何とはなく優しい視線で、総司の事をじっと見つめていた。
瞬く間に赤く染まった手ぬぐいを握り締めたまま、総司は再び床の上に昏倒した。


先程の夢が蘇って来る。
総司は壬生寺の境内に居た。
「おにいちゃん!」
「おにいちゃん!」
無邪気で賑やかな子供達の声が聴こえる。
総司の両手は忽ち子供達に奪われ、一瞬の内に10人以上の小童達に囲まれた。
「まあ、あのお武家様ったら、子供達よりもご自分が一番楽しそうな顔をしてはるわぁ」
昼下がり桜を見に来ていた若い女性の2人連れが、口元を袂で隠すようにして噂をするのが聴こえた。
「あのお方、八木はんに投宿してはる壬生狼はんなんよ。とてもお若いし、あの怖い人達のお仲間だなんて信じられへん。いつも此処で子供達と遊んでいはるわ。でも、とてもお強いのどすえ。りりしいお顔にならはって、ご浪人はんをあっと言う間に斬らはるとか…」
「心根の優しさが身体中から染み出していらっしゃいます。背が高くて涼しい眼をした素敵な方。とてもそんなお方には見えません……笑顔も素敵ですね」
総司は懐かしいお江戸言葉を聞き付けて、耳朶を赤く染めた。
そのおなごは、総司に聴き付けられないように、小声で言ったつもりだったようだが、針が落ちた音さえも聴き取るように磨かれた総司の聴覚が、それを聴き逃さなかったのだ。
チラッと気付かれないように盗み見たそのおなごに、総司は強く心惹かれた。
美しい……。
殆ど化粧を施していないが、その美しさは内面から湧き出ているようだった。
目鼻立ちが通っているのに、決してその顔立ちは派手では無い。
澄んだ大きな瞳に深い情熱と優しさを秘めている。
透き通るように白い肌が眩しい位に、その美しさを際立てている。
京の女性はしとやかだ、とは思っていたが、この女性はちょっと違う。
江戸の女(ひと)のようだ。
板についたお江戸言葉からしても、それは間違いない。
男性への思慕を隠さずに話す。
総司には却ってそれが新鮮で眩しく、魅力的に見えた。


それだけの事だったのに……病いに伏した今になって、なぜ彼女の姿が夢枕に立ったのか。
夢の中で、総司は考えた。
京では、自らの手で多くの血を流し、そして、今は自分の血を流し続けている。
血を喀く度に少しずつ、総司の心はあの頃のまだその手を血で汚していない、汚れなき自分に戻りつつあるようだ。
あれから5年。
あの無垢な子供達の柔らかな手の温もり、名も知らぬあの女(ひと)への憧憬。
そんな物全てが懐かしく、もう還れない青春の時代に思いを馳せる。
壬生に居た頃が一番彼に取って輝いている時代だったのだ。


もうあの女も、お嫁に行って、可愛い子供を設けている事だろう。
まだ京に居るのだろうか?
それともこの江戸で暮らしているのかな?
……幸せ、なのかな?
剣に生きた私の人生には、女性と言う物との関わりは無かったけれど、もし違う人生を歩んでいたのなら、あの女と一緒に生きる事も出来たのかな?
夢うつつの中で、総司は意識を模索する。
私はあの女が好きだったのかな?
桜の花びらが1枚、どこからか総司の頬に舞い飛んで来た。
障子も開けていないのに不思議だな……。
あ……。
桜の花びらと共に、再び総司の夢枕に『あの女』が立った。
「お…沖田様!しっかりなさって!」
すっと、美しい所作で彼の横に座る。
その声と衣擦れの音を、総司は確かに聴いた。
「ま…幻を見ているのかな?」
総司は夢うつつのまま、小さく呟いた。
「いいえ、幻ではありませんよ。お婆様が風邪を引いてしまわれたので、私が代わりに参りました」
その声に総司は夢から覚めて現実に戻った。
忘れもしない。
総司の笑顔が素敵だ、と言ったあの声の持ち主。
「江戸に帰って来られたのですね!」
総司は自分が血を喀いて意識を失っていた事すら忘れて、今にも飛び起き兼ねないような勢いで眼を見開いた。
さすがに身体は言う事を聞かず、飛び起きる事は出来なかった。
「お話しなさっては行けません。お身体に毒です。今、白湯をお持ちしますから」
美しいその女は、すっと立ち上がると、障子の向こうに素早く立ち去ってしまった。


残された総司は、混乱した。
これは夢…?それとも現実…?
ああ……私はもう駄目かもしれない。
幻を見るようになってしまった……。
もうこれ程までに私は……。
「しっかりなさって!今、平五郎さんのお弟子さんにお願いして、お医師を呼んで戴いています」
戻って来た彼女は、てきぱきと総司の手当てを始めた。
「夢では……無いんですね」
「当たり前です。故あって京都に移り住んでおりましたが、昨年の秋に江戸に戻りました」
「貴女の事は京で見知っておりました。あの…壬生寺で……」
口元の血を拭って貰い、白湯でうがいをして一息つくと、総司は漸くお喋りを許して貰った。
「私もです。子供達に手を引かれ、一番楽しそうにしていたあなたのお顔は、今でも手に取るように思い出せますわ」
懐かしそうな顔になって、彼女は答えた。
「貴女は私の名を知っておいでのようですが、私はまだ知らないのです。良かったら教えて下さい」
「私は、『しの』と申します」
「おしのさん……良い響きだ」
「もう、沖田様ったら。血を喀かれたばかりですよ。もういい加減になさいませ」
それでも、言葉とは裏腹に、5年前と全く変わらぬ美しさで、優しく微笑んでくれた。
総司は彼女が眩しくて眩しくて、思わず瞳を閉じた。
しのの微笑みが、彼が最後に見たものとなった。
そのまま意識を失って……。
総司が息を引き取ったのは、その翌朝だった。
幸いにも1日で風邪が癒えて、いつものように朝餉を持って来た婆様がそれに気付いた時には、既に彼の身体は冷たくなっていた。
夜がまだ明ける前に静かにその死が訪れたようだ。
安らかな、満足気な顔をしていた。
まるで眠るかのように息を引き取ったのだと見て取れる。
顔色が真っ青である事以外は、普段と変わらない様子だった。


彼の遺骸の脇で一匹の黒猫が蹲り、息絶えていた。
まるで彼の迎えに来たかのように、寄り添っていた。
寂しい1人の死出の旅に付き添ってくれたに違いない。
たった1日だけ、『しの』を連れて来てくれたのは、この黒猫だったのだろうか。
孫娘から事情を聴いて来たお婆様は、そう思うと、この猫も愛おしく思えた。
縁があって短い間世話をしたが、総司は心優しく穏やかないい若者だった。
植木屋平五郎に、猫と一緒に葬ってやってくれ、とお婆様は進言し、離れから下がった。
沖田総司は、身分を隠して此処で療養していた。
官軍に追われる身である彼を、おおっぴらに見送る事は出来なかったのだ。
平五郎の好意で総司の髪の一房を貰い、お婆様は自宅に篭った。
そして、しのと2人、静かに故人を偲んでいつまでもいつまでも線香を焚いたと言う。

 

− 終わり −