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揺らぎ

 

 

香奈絵は愛用の鉛筆を右手の中指と人差し指で挟んで揺らしながら、英文学の本と格闘していた。
子供達が眠ってしまったこの時間がチャンスだった。
仕事で帰りの遅い夫が帰って来るまでのこの時間……彼女にとっては貴重な時間であった。
食卓では冷え切った2人分の夕食がこの家の主人の帰りを静かに待っている。
彼女には以前からの夢があった。大好きな英語を生かして翻訳家になる……。
働きながら英会話学校にも行き、彼女は自分を磨く事を忘れなかった。
彼と出逢って、愛を育み、彼のいる見知らぬ土地へ嫁ぐ事になるまでは。
結婚して1年後、1人目の子供を授かった。彼に似た可愛い女の子だった。
育児に追われる毎日、彼女の夢は自然遠ざかっていた。
仕方のない事だと言える。
それに子育ては新しい発見が多く、楽しくもあった。毎日が驚きの連続だった。
我が子の成長に目を細める日々。悪く無かった。
世界中のどんな母親よりも、自分が一番愛する子供から幸せを貰っていると思った。
優しい夫と可愛い娘の世話をするのが、自分には心地好かった。
そうして、娘が2歳を迎える少し前、彼女は2人目の妊娠に気付いた。
悪阻は1度目程ひどくも無く、子育てにも家事にも慣れて来た。
ふと、手持ち無沙汰な自分に気付いた。
何かが足りない……。彼女は今までの結婚生活の中で初めて、そう感じた。
何一つ不自由な生活はしていなかった。
強いて言えば夫の帰りが遅い位だろうか。
専業主婦の彼女にとって、子供と2人きりの時間は果てしなく続くように思われた。
何が不満なのだろう?
夫は家にも仕事を持ち込む程、一生懸命に働いて、家族を守ってくれている。
僅かに休みが取れれば、妻や子供の相手を厭わない。
絵に描いたような幸せな一家……。
香奈絵は、ふと溜息を洩らしている自分に気付いた。
気分転換にカーテンの柄を替えてみた。
明るい花柄。外からの暖かい風が心にまで染み渡りそうな。
ピンク色の淡い花が広がって、今までのシックな無地のカーテンとはかなり雰囲気が変わったのだが、どうやらそう言った事ではこの満たされない思いについて、解決の糸口を見付ける事にはならなかった。

 

そうだ、本当は解っている筈だった。
今、自分がしたい事。しなければならない事とやりたい事が違う。
そんな事は、誰でも皆抱えている悩みである筈。
だったら……時間の使い方さえ上手く出来れば、自分にだって、夢に向かって手を伸ばす事が出来る。
香奈絵がそう思い至ったのは、夫の後押しが切っ掛けだった。
「世間には働きながら子供を育てている人だっているんだ。君に出来ない訳が無い。確かに僕は仕事で家を空けている事が多いけど、君が及ばない処は出来るだけ協力するから。取り敢えず勉強だけはしてみたらどう?
……決して無駄にはならないと思うよ」
彼の言葉は、ふっと香奈絵の背中を優しく押してくれたのだった。
もう少し子供達が大きくなれば、保育園に預けてその間に学校に通う事だって出来る。
それまでの間は、とにかく自分自身で勉強をして行こう。
自宅での勉強は意志が強くなければ出来ない。大体は挫折してしまう。
しかし、彼女は子供達の寝顔を見ると、頑張る事が出来た。
それに、とにかく大好きな仕事なんだもの。
一度、道が開ければ一生出来る仕事でもある。
年齢には関係の無い仕事だし、自宅で自分のペースで続ける事が出来る……。
これ程彼女の志向に向いている仕事は無いと言えた。
だからこそ、彼女のそんな気持ちに気付いて、一歩足を踏み出す切っ掛けを与えてくれた夫の為にも頑張れる。
そして勿論、自分自身の為にも。
2人目の妊娠中から時間が空けば、翻訳の勉強をするようになった。
ただ英語を日本語に訳せば良い訳ではない。
専門用語を知らなければどうにもならない事が多いし、文学書の翻訳の場合には、そう言った素養も必要になって来る。
勉強する事は山ほどあるし、それは一生続くのだ。
でも、香奈絵は、その事で却ってこの先、生き生きとした自分を生きられるような気がし始めている。
父が願いを込めて付けてくれた彼女の名前。
「願いが『かなえ』られるように……」
彼女の充実した日々は、父からの贈り物なのかもしれない。

 

上の子が寝惚けて泣き出した。
そのつぶらな瞳を真っ赤にして、涙を拭おうともしないで、ママを探している。
香奈絵は鉛筆を置いて、そっと読み掛けのページに栞を挟んだ。
今はこの愛しい子供達と、自分と、優しい夫の生活を楽しみながら焦らずにやって行こう。
きっと道は開ける。
香奈絵は力強く、誰にとも無く頷いて、ママの顔に戻った。
少しだけ揺らいだ彼女の心も今は夜の海のように穏やかで、揺るぎの無い物に変わっていた。

 

− 終わり −